1988/10/21

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113 衆議院・文教委員会

家庭は男女で作るもの 文相に家庭科教習を促す

江田五月議員は一般質問に立ち、教科書の広域採択制度への疑問と家庭科の男女共修の実施などについて政府の見解を求めました。

江田議員は、家庭や生活は男女にとって同じ比重で大切なものであり、男性も「家庭経済」や「家計簿」などの知識が必要な時代でもある、と強調。これに答える形で中島文部大臣も「学校教育は生涯学習の一環であるという認識から共修の必要性を認めうる」と、積極的な姿勢を示しました。さらに、昭和六十九年度からの高校での全面実施に向けて六十六年度からは中学でも準備を進めるべきだ、という江田議員の意見に添う方向を明らかにした。

インフルエンザ・ワクチンの学枚での接種に見直しを

 インフルエンザの集団接種は事故が起きやすく、その責任体制にも問題があると岡山市の実例をあげて質問。学校の授業カット、先生の責任の範囲、事故の処理など、学校を接種の現場にすることによる問題点の所在を当局に認識させました。


○江田委員 おはようございます。まず、きょうは教科書の採択のことについてちょっとお伺いをしてみたいと思うのですが、作家の司馬遼太郎さんがひとつ自分の全精魂を込めて教科書をつくってみようというのでみずからも執筆をされまして、もちろんほかの人と一緒ですが、教科書をおつくりになった。大阪書籍の「小学国語」というのですが、既にきのう文部大臣にこの司馬遼太郎さんの書かれたところをあらかじめ読んでおいてほしいということをお願いいたしましたが、お読みくださったでしょうか。

 二つありまして、五年生の一番最後「洪庵のたいまつ」、緒方洪庵の話、六年生の一番最後は、これから小学校を卒業する子供たちに対して「二十一世紀に生きる君たちへ」、こういう文章ですね。大臣、なかなか難しいでしょうけれども、ちょっと感想を伺えればと思います。

○中島国務大臣 御指摘がありましたので、大阪書籍の御指摘の部分については目を改めて通させていただきました。一言で申せば、国語教育の面から見ても、人間形成に資するという面から見ても、国語教材としてふさわしいものとは当然思いますけれども、これが五年と六年に分かれておるわけでございますね。

 私、率直に思いまして、緒方洪庵さんの件、これは一読して大変結構なことでありますけれども、ただその中に、世のために尽くした人の一生ほど美しいものはないという書き出しでありまして、その中にお医者さんの心がけの一部に、ただただ自分を捨てよ、そして人を救うことだけを考えよ、こういう言葉があるわけであります。これは、私どもが先入観念があるのか、今のお子さん方にこういうことが素直に受け入れられるかなという感じを率直に持ったわけでございます。失礼な話ですが、私どもの時代にはかつて滅私奉公という言葉がありまして、それはやはり今の時代ではさらに本質をもう一度正しく理解していただかなければいかぬことではないか。

 ただ、六年の「二十一世紀に生きる君たちへ」という中では非常に的確にそれが指摘されておりまして、人間とは自然の一部だ、だから人間は自分で生きているのではなくて支え合いながら生きているのだ、だから自己の確立というものは、自分に厳しく相手に優しく、それを自己の確立として、そして他人に対するいたわり、優しさがあることによっておのれのたくましさが生まれるのだ。

 この二つを読み合わせますと、非常に立派なことでありまして、そういう意味で、五年生の方に書かれた部分、それを「二十一世紀に生きる君たちへ」ということでもう一度わかりやすく言っていただいている。これは私、大変結構なことで、できればこの認識を間違いなく受け取っていただきたいな、そういう感想は持ちました。

○江田委員 一つ一つの教科書がいい悪いということをここで議論する場ではないのですけれども、しかし、日本じゅうで非常にみんなに好かれ、親しまれ、尊敬もされている作家の司馬さんという人が情熱を込めて教科書をおつくりになったというのは、私はこれは敬意を表すべきことだろうと思うのですね。ほかの教科書ももちろんすばらしい教科書ですが、これも負けず劣らずすばらしい。そういう意味で検定も合格されたのだろうと思います。ところが、これは随分採択する学校も多いのじゃないかと言われておったら、何とふたをあげてみると東京、大阪の私立の学校、十校ぐらいが採用しただけで、それ以外には公立の学校では採択がゼロであった。

 こういうことで、この教科書を使って子供たちを教えたいなと思う国語の先生が、日本じゅうで小学校が二万四千六百もあるのに、全然なかったというのは一体どういうことなのかな、なぜこんなことになるのかとちょっといぶかしく思うのですが、なぜ一体この採択ゼロということになってしまうのですかね。

○古村政府委員 これは、採択は市町村の教育委員会の権限でございますので、市町村側の考えということが基本にあるわけでございますが、概して言えば、学校というのは従来から使いなれた教科書を踏襲していくといった傾向が非常に強い。特に、今回は四分の一改訂、いわゆる部分改訂の年に当たっておりますので、そういった従来以上に前の年の教科書をそのまま使っていくというふうな傾向が強かったんだろうというふうに思うわけでございます。

○江田委員 従来からのものを踏襲する傾向が強いというお話ですが、それもあるでしょうけれども、やはり一番の問題は、広域採択制、採択区域というものがあって、その区域の中で決めていく。したがって、私はこの教科書で子供たちを教えたい、そういう教師の願いあるいはそういう教師のグループの願いというものがなかなか通じにくいという、そういう制度になっているところが問題じゃないですか。

○古村政府委員 現在、教科書の選定というのは大体郡市単位ということで一つの教科書を使っていくというふうな仕組みになっておるわけでございまして、これは戦後大体そういった仕組みがずっととられてきて、そして昭和三十八年の法律の制定によってそれが法文化された。そのときに都市単位が集まって採択地区協議会をやりますが、そのときに専門の先生方の御意見を十分そこで調査員等に任命して聞いて、と同時に、片方、県の教育委員会において選定審議会というものを持ってそこからの意見も聞いて、そういうことを基本に置きながら採択地区においては教科書を決めていくというのが長い間のルールで定着しているわけでございまして、そのことが直接この問題の新しい教科書についてストレートに響いているというふうには思えない。実際問題として、先ほど申し上げましたように、前の教科書を使っていく傾向が強いということから、教科書の新規参入というのはなかなか入りにくいというのが現状でもあるというふうに考えております。

○江田委員 ことしの小学校の教科書の採択で、以前からのものを踏襲する傾向が強いとおっしゃいますが、小学校の国語でどのくらい変更がありましたか。

○古村政府委員 全種目で見てみまして、採択の変更率はことしは六・七五%ということでございます。

○江田委員 国語だけという数字はあるのかないのか――ありますか。国語だけだとどのくらいですか。

○古村政府委員 国語だけですと、七・二%でございます。

○江田委員 七・二%変わっていて、七・二%を多いと見るか少ないと見るかはそれは見方ですけれども、それだけやはり変わっていくのに、前からのものを踏襲する傾向が強いからなかなか新規参入しにくい、それが理由である、この大阪書籍の教科書がどこにも採用されなかった理由、なかなかちょっとそうは言えないのじゃないかという気がするんですがね。

 それはいいとして、新聞とか週刊誌などにこの件は取り上げられていて、そういうマスコミの伝えるところによると、どうも採択区域というものがこういう広域採択になっていて各採択地区の少数の有力教師が決定権を持っている。大変に寡占の壁というものがあって新規参入は難しい。しかもその間にいろいろと、何というのですか、まだ教師がなりたてのころから、これは将来物になるぞというような者は一生懸命教科書会社が応援をして、例えばろくでもない――ろくでもないというと悪いですが、どうでもいいようなものに原稿を書かせて原稿料をだっと出すとか、そういうようなことをして次第次第に手懐けていって、悪い言葉で言えば籠絡して自分のところの教科書を売り込むという、そんなことがあるんだ、利権のスクラムがあるんだ、そんなことまで書いてあるんですが、そういう事実というのは文部省は承知をしておられるのですか、おられないのですか。

○古村政府委員 教科書の売り込みに当たりまして過当競争にならないようということは私たちも大変心配しているところでございまして、そこで、文部省といたしましても、毎年その関係者に対して具体的にそういった誤解を招くような競争をするんじゃないというふうなことを内容にした通知をして指導を厳しくやっているわけでございまして、具体的に何かあった、いかがわしいことがあったというふうなことまで私の方は聞いておりません。

○江田委員 これは文部省の局長のところまではなかなか耳に入りにくい。しかし、現場ではいろいろな話がどうもあるようですが、ひとつ十分に耳をそばだてて現場の声を聞いてほしいと思います。

 ところで、臨教審の答申、私は臨教審答申がすべていいという立場でもありませんが、すべて悪いという立場でもない。いいところ、悪いところいろいろあると思うのですけれども、教科書についてはなかなかおもしろいことを言っているのですね。

 臨教審の第三次答申では、「今日、この教科書については、内容が画一的、網羅的で、個性的な教育を阻害している、」とか、あるいは「今後における情報化や国際化の中で教科書は個性的で多様なものが求められている。」この選択についても、「多様な選択の機会の拡大」が必要なんだとか、そういうことを書いているわけです。あるいはまた、「教科書発行者には、ともすれば教科書行政への過度の依存傾向がみられるが、今後は、このような惰性を排し、検定制度の改革ともあいまって主体的、積極的によりよい教科書の作成のために一層創意工夫に努めることを期待しなければならない。」

 こんなことが書いてあるわけですけれども、例えば今の国語の場合でいうと、光村図書ですか、これ一社で六四%のシェア。新しい教科書の採択が、二万四千六百校もあるのにゼロ。これで個性豊かで多様な教科書あるいは発行者の創意工夫を生かしていく、そういうことになるのでしょうかね。どうも何か制度というのがちょっとおかしい、この臨教審答申が求めている方向から見ればですね。そういうことはお感じになりませんか。

○古村政府委員 私たちは、個性豊かな、非常にバラエティーに富んだ教科書というものがあってほしいというふうに思っております。と同時に、そういったことについて、教科書の編集についてはもっともっと力を入れてほしいと教科書業界にも今まで何回も十分お願いをしてまいりました。結果的に今一社のシェアが大きくなったことについて、一つの評価としては、採択側がその教科書をいいと見た、それが積み重なると日本の国で半分以上になったということになるのですが、やはりもうちょっと、ある程度いろいろな教科書がいろいろな学校で使われるということがあっていいんではないかというふうに思っております。

○江田委員 ところで、広域採択制といいますか、採択区域制、こういう制度をおとりになっている理由は一体何ですか。

○古村政府委員 やはりその地域におきます事情というものがあろうかと思いますけれども、制度的よりも実質論でいきますと、同じような教科書を使っておりますと、先生同士の研修とかそういったことが非常にやりやすいという面がございます。と同時に、子供にしてもある程度共通の、同じところに住んでいる子供は同じ教科書を使っていることによる子供のやりやすさ、あるいは転校する場合においても毎回毎回かえなくてもいいというふうな実質的なメリットはあると思いますし、そういったことが戦後の教科書の採択のあり方というものをより実態的に合わせて制度化してきたというふうに私は考えております。

○江田委員 あらかじめ文部省の方に伺ったところによりますと、地区制というものの理由は、転校など児童生徒の移動に対応しやすい、どこへ行っても同じ教科書、それが一つ、二つ目が教科書研究、教師の共同研究に便利だ、三つ目に供給体制の合理化、迅速化に資する、四つ目は採択区域が小さいと販売攻勢が過熱するとか、そんなことをおっしゃっていましたが、公式のお答えかどうか知りませんけれども、いずれもどうかなと思いますね。

 個性にあふれたいろいろな教科書をみんなが使っていこうじゃないかという要請と、どこへ転校しても教科書が変わらないことが便利だということとは一致するのかどうか。転校のときに子供の環境が変わって困るから、しかし教科書が変わるどころの変化ではない大変化が子供を待っているわけですからね。それよりも、その地域地域にふさわしい個性のある教科書がいろいろなところにあることの方がむしろいいのではないか。共同研究と言いますが、同じ教科書で研究をやっている方が便利なのか、いろいろな教科書がある方が便利なのか、これもわかりませんよ。まして、供給体制の合理化、迅速化に至っては、子供の個性というのは一体どうなってしまうのか。教科書を運搬するのに、それはパックしてたくさん一遍に送る方が便利だろうけれども、そんなことで決められてはかなわぬ。販売攻勢の過熱は、小さいといっぱいいろいろなところヘアプローチしなければいかぬから大変――むしろ少ない方がアプローチは激化するとも言えるわけで、いずれにしても大した理由はない。

 むしろ、臨教審答申に、供給体制についてもより開放的なものにすることが望まれるということも書いてあるわけで、より開放的供給体制を実現して、教科書をつくる場合も、もっと多様な、個性豊かな教科書ができるように制度的な面からもぜひ検討していただきたいと思いますが、この検討を何か始められているそうですね。これは私が今言ったようなことを目的として設置された協力者会議ですか。

○古村政府委員 おっしゃいますように、臨教審答申で教科書の採択のあり方についてかなりの提言がなされております。それらを踏まえて現行制度の問題点を明らかにして、その改善方策について調査研究をしていただきたいということで、ことしの四月一日に学識経験者の方のそういった会議をつくりまして、そこで御検討願っておるのが現状でございます。

○江田委員 文部大臣、多様化の時代ですから、教科書も個性豊かな多様なものが出回る、そして教える者、教わる者が、こんな教科書で勉強したいなと自分たちで教科書について意見も言える、そういう意見が反映していく、そういうことも臨教審答申には書いてあるのですね。保護者や教師の意見も通るような制度ということも書いてあるわけで、ぜひ広域採択という制度を一遍洗い直してみられる必要があると思いますが、いかがでしょう。

○中島国務大臣 おっしゃる点はよくわかります。江田先生に文部省の職員が申し上げた四つの理由ということも一理はあると思います。ただ、一方で、先生おっしゃるように多様化、個性化の時代でありますし、そういう児童生徒をはぐくむために学校教育そのものが個性的であり多様的であるということは必要なことでございますので、これから有識者の御意見も聞きながら検討を進めさせていただきたい、このように思います。

○江田委員 教科書の問題はその程度にしまして、次に家庭科の男女共修の問題について伺います。

 まず初めに、ちょっと古くなりましたが、今年三月、静岡県の県立韮山高校の理数科入試の男女差別問題というのがありまして、これについて伺います。

 静岡県弁護士会の福地絵子という弁護士さんが静岡県弁護士会人権擁護委員会に申し立てをいたしました。その申し立て書によりますと、韮山高校では理数科、これは特に優秀な生徒を集めて小人数でどんどん教育していくというようなことでつくられたエリート養成コースということなのだと思いますが、その理数科で家庭科をやらないで済むように、女子がおりますと家庭科をやるということになっているが、女子の人数が非常に少ない場合には特例として家庭科をやらなくていいことになっているわけで、これを逆手にとって家庭科をやらなくて済むように、定員四十人のところを女子の合格者を五名未満、四名に抑えた。そのため女子の中の五位の生徒の成績は男子で合格した三十六名のうちの三位の生徒と同じ成績なのにその女子は不合格となった、こういうことなのですね。

 この問題は新聞とかテレビでも相当取り上げられて、NHKのテレビでもかなり長い特集番組をつくっておりましたが、文部省、これは御存じでしょうか。

○古村政府委員 御指摘の静岡県の韮山高等学校の理数科におきます選抜の経過については、私たちも県から報告を受けております。

○江田委員 その県の報告というのは、今言ったような内容について、そうでございますという報告ですか。

○古村政府委員 県からの報告によりますと、一つは、事前選抜あるいは合格内定というものが先にあったのではないかという疑問につきましては、入学選抜試験はきちっとやっておりますから、そういった事前選抜ないし合格内定が行われた事実はありませんというのが第一点。第二点は、進路指導に問題はなかったのかということにつきましては、進路指導については若干行き過ぎがあったのではないかということを認めております。それから、男女差別の問題につきましては、男女の区別によって入試を決めたという事実はございません、そういった報告を学校から受けたということを県から聞いております。

○江田委員 そういう報告、これは恐らくそういうことをお聞きになると、関係の皆さん、行政の皆さん方は仲間内でかばい合うのだな、そういうところについてもそんなものかな、こういうような苦笑いのようなことになってしまいますよ。現実にはそんなことはないので、事前選抜というのはかなり行われておる。ですから、この韮山高校では入試の事前選抜の問題と理数科の男女差別の問題、それから県立高校における実質的な男女不平等定員制、こういうことがあるわけですね。

 私もいろいろな資料をいただいておりますが、どうも静岡県の各高等学校進路指導の中身などを見ますと、ここの学校は男子はここまでの点数は入れるけれども女子はここまで点数がなければ入れないということがずっと並んでいるのですね。こういうものは明らかに男女差別だと思いますけれども、文部省、今の御報告をいただいてそれで事足れりですか。

○古村政府委員 そういう報告でございましたので、やはりある程度そういったいろいろなことについて県民の皆様から批判が出てくるということについては、そういったことがないように県教育委員会としてはしっかり学校を指導してほしいということを申し上げ、県の教育委員会としては、先ほどちょっとお触れになりましたが、理数科では女子に家庭科をやらないということについては、やはり女子には家庭科をやってほしいということを県の教育長も校長会に向かって要望いたしたようでございますので、ひとつ県の努力を待ちたいというふうに思っております。

○江田委員 公式にはなかなか、家庭科をやったりする手間を省いて入試一本やりで受験勉強を一生懸命やりたいから女子を少なくするんだなんてことを認めるのは困難だと思います。しかし、そういうふうに受け取られかねない現実があるわけですから、ひとつこれは改善に全力を傾けてほしいと思いますが、家庭科を忌み嫌うというのでなくて、今むしろ家庭科を男の子にも一生懸命教えていかなければならぬという時代が来ているのではないか。

 また、そういう入試に余り役に立たぬ科目だから敬遠をするというような人間がどんどんいい学校へ行き、上へ上へ上っていって世の中のリーダーになっていく、そういうことではもう世の中は動いていかない、二十一世紀を迎えられない、そういう時代になっていて、家庭科というもの、家庭科に限らずですけれども、とりわけ家庭科というものを見直していかなければならない、そういう時代が来ている、これが教育に携わる者の共通した認識にならなければならないと思うのですね。

 私は、この文教委員会に所属して以来ずっと家庭科の問題には取り組んでまいりました。今までいろいろな経過を経まして、五十九年十二月には検討会議の報告が出た、六十年九月に教育課程審議会の審議が始まって六十一年十一月に中間まとめ、六十二年十二月に答申、そしてことしの十二月ですか、中学校の指導要領、それから来年春には高等学校の指導要領が告示をされる。そういう段階になって、やっと家庭科というものが男女ともに履修をする科目になるということのようです。

 文部大臣、突然家庭科と言われても面食らわれるかもしれませんけれども、私はこんなことを考えているのですね。今までは、男は外で働き女は家で家庭を守る、そういう役割分担というのであるいはやってこられたかもしれないけれども、今は時代が随分変わりまして、女性も大いに社会参加していこうじゃないか、仕事も持っていこうじゃないか、男もひとつ家庭生活、子育て、こういうことに無関心でいられない。そういうことに無関心でひたすら外で働いて、定年になってほっとしたら、奥さんからもうあなた御用済みよと言われて離婚を言い渡される。そういうことではいけないので、そうではなくて、男もひとつ外で仕事もするが同時に家庭の運営も女性と分担をしてやっていくという、その分担のやり方は家庭家庭でそれぞれにいろいろなタイプがあるでしょうけれども、少なくとも男子も身辺自立の学問、技術というものを子供のうちからきちんと身につけておかなければ、これは男自身が将来生き残れない、そういう時代が来ている。

 一説によりますと、六十五歳を過ぎて、だんなさんに先に死なれた奥さん、だんな、奥さんという言葉がこれまた問題ですけれども便宜使いますが、これは天寿を全うするのだそうです。余計な者が早く死んだから。だけれども、奥さんに先に死なれただんなさんというのは平均して二年でぽっくりいっちゃうのだというのですが、当たらずといえども遠からずだと思います。

 大体家庭の維持経営、身辺自立なんというのは親から子へ、家庭から家庭へ受け継ぐべきものだ、こういう考え方もあるけれども、しかし今、核家族になったりして、家庭というものの従来の伝統的な機能というものが随分怪しくなっている時代でもあるから、公教育の中で家庭科といいますか、その家庭科も調理、裁縫じゃなくて、例えば子育てのことだとか家庭経済、今クレジットカードで家庭が崩壊なんというところも随分あるのですね。あるいはまた、例えば食品の問題だって人工甘味料のこととか添加物のこととか、社会的な問題がこういうところへも随分入り込んできているわけですから、そういうものについての物を見る目、あるいはこれは本格的に取り組まなければならぬと思いますが、セックスの問題であるとか、そういうことまで含めて生活科というようなものを体系的につくり上げて、男女ともに、しかもこれは同じ時間に同じ場所で、同じ先生から同じ内容を男女が学ぶ、そういうことが必要になっている、こうしつこくしつこく主張してきたのですが、大臣、どうお感じになりますか。

○中島国務大臣 私は江田先生の御指摘を拝聴しておりまして三つのことを考えました。一つは先ほどの司馬遼太郎さんの内容ではありませんけれども、人は支え合って生きていくもの、そういう意味では今優秀な女性の方々がどんどん社会活動をしておられますし、私ども自体が、男女それぞれの役割分担はございますけれども、支え合ってそれぞれが生きていくという面があるなあと。

 振り返って、私ども政治に身を置いております者はどうしても家庭が別々になることがございますから、幸いと言ってはあれですが、身の回りのことは自分でいたす習慣がついております。朝食ぐらいは自分でつくる、飯を炊いて、洗濯あるいは身の回りは自分でやるという習慣をつけておかないと政治活動ができぬものですから、そういうところを見ますと、男女分担というものが非常にオーバーラップしてきておることだというふうに二点目は感じます。

 三点目は、家庭科といっても、家庭一般、それから生活一般、生活技術、こういう並列した中から必修を一つ選んでいただくということでありますが、そのときに、やはりおっしゃっていただきましたように、これを進学の具として見ていくのかあるいは学校教育そのものが生涯学習の重要な基礎部分であるという自覚に立って選んでいただくかによって違ってくると思います。

 私どもは学校教育というものは進学のための教育ではなくして生涯学習の一環としての学びやであるということを考えておるわけでございまして、その意味からいけば家庭科の必修のとり方、それから重要性というものはますます認識されていかれること、私どもはそれを希望しつつ家庭科の充実に努めてまいりたい、このように考えます。

○江田委員 今教育改革ということが随分言われているわけですが、私はちょっとオーバーに言えば、家庭科がどうなるかということが教育改革が実りを上げるかどうかのテストケースであるような気さえするので、本当に生涯教育の一環としての、人生のスタートの時期における家庭科、生活科、こういう位置づけをしっかり与えられてこれにみんなが一生懸命取り組んでいって、それが受験勉強に流れないで、その他の科目にもそういうものが影響を与えていって、学校教育がふるい落としの教育、進学のための教育から変わっていくことになれば非常にありがたい。そういうことにしなければいけないと思っておるのです。

 ところで、検討会議から教課審を通じての文部省の基本的な考え方で、私の誤解ならばいいのですが、ちょっと心配になることがあるので、聞いておきたいのです。

 それは女子差別撤廃条約についての考え方です。検討会議の報告とか、教課審での当時の松永文部大臣のあいさつとか、あるいは教課審中間まとめにも、女子差別撤廃条約という文言がずっと入っておりました。女子差別撤廃条約を批准するということが、世の中の大きな流れがその根本にあるのですが、これが家庭科見直しのきっかけになっていたわけですが、これが教育課程審議会の答申の中から消えてしまうわけです。女子差別撤廃条約の意義はもう終わったんだからやめてしまおう、こういう趣旨ですか。

○古村政府委員 おっしゃいますように、教育課程審議会の中間まとめにおきましては女子差別撤廃条約ということをはっきり書いて家庭科の問題について触れたわけでございますが、答申の段階でその文言がないではないかということだと思います。私たちはその考え方はずっと貫き通している。当然女子差別撤廃条約の精神を答申の中で具現した。中間まとめを台に置いて最後の答申に入ったわけですから、そういったことは全くございません。

○江田委員 女子差別撤廃条約というのは、実はかなり重要な条約でございまして、特に家庭科の関係では第十条がありまして、その本文は、「締約国は、教育の分野において、女子に対して男子と平等の権利を確保することを目的として、特に、男女の平等を基礎として次のことを確保することを目的として、女子に対する差別を撤廃するためのすべての適当な措置をとる。」(b)項は、「同一の教育課程、同一の試験、同一の水準の資格を有する教育職員並びに同一の質の学校施設及び設備を享受する機会」、そして(c)は、「すべての段階及びあらゆる形態の教育における男女の役割についての定型化された概念の撤廃を、この目的の達成を助長する男女共学その他の種類の教育を奨励することにより、また、特に、教材用図書及び指導計画の改訂すること並びに指導方法を調整することにより行うこと。」文章が難しいのでじっくり読まなければわかりませんけれども、要するに男女の役割の定型化、固定化というものを、男はこうこうですよ、女はこうこうですよというものを排していこうといういわば実践的課題を締約国に与えている条約、これが女子差別撤廃条約です。

 それが別に条約で言われているからというのではなくて、大きな時代の流れ、二十一世紀を迎えるに当たって、各国ともが、世界じゅうがやらなければならぬ課題ということなので、十条(c)項というのは非常に重要だと思うのです。

 私、今手元に文部省の初中局の視学官、津止さんという方と調査官の桜井さんという方の書かれた「教育課程審議会答申と家庭科教育」、そういう文書を持っておりますけれども、ここでは、今の十条の(b)項のことはお書きになっておるのですが、しかし、十条(c)項の方が抜けているのです。今の十条(c)項、つまり男女の定型化された役割分担というものを改めていくのだという、そこにこの女子差別撤廃条約の、ひいてはそれをきっかけとして家庭科を見直していく、その根本精神があるのだ、これは文部省も同じ理解と考えていいのでしょうね。

○古村政府委員 そこのところは、私もそういうふうに思っております。

○江田委員 いろいろな人がそういう点を心配していますので、ひとつこれは間違いのないようにしていただきたいと思います。

 さて、指導要領の告示を目前にして具体的なことで一、二お伺いをしますが、中学校の技術・家庭、これは木材加工と電気、家庭生活、食物、この四領域が必修、残り三領域以上が選択必修、こういうことになっていくということですが、この残り三領域については少なくとも半分以上は家庭領域の科目が確保されるべきだと思います。

 というのは、ほとんどの生徒が、今こういう時代ですから高校へ進学して男女共修の家庭科を学ぶ、そういうことになるわけで、中学校できちんと家庭科を履修していないと高校へのつなぎができないわけですね。男子は木材加工、電気、家庭生活、食物、そしてあと三科目は全部技術領域、女子は選択必修の三科目が全部家庭領域、そういうような区分にならないように努力をすべきだと思いますけれども、これはいかがでしょう。

○古村政府委員 おっしゃいますように、現在考えております学習指導要領の必修は、木材加工、電気、家庭生活、食物というのがすべての生徒に履修させて、そして残り金属加工、機械、栽培、情報基礎、それからあと被服、住居、保育といった七領域の中から生徒の興味、関心等に応じて三領域以上選択して履修させる方向ということで検討いたしております。

 そこで、新しい学習指導要領に基づきまして具体的にどのような教育課程を編成するかということにつきましては、各学校がそれぞれの教育方針あるいは生徒の実態を踏まえまして決定すべき事柄であると考えておりますが、いずれにいたしましても、男女が協力して家庭生活を築いていくことあるいは生活に必要な知識、技術の修得などの基本的なねらいが達成されるようにということを目的にして今度の教育課程を組み上げていきたいというふうに思っておるわけでございます。

○江田委員 抽象的なお答えで、そういうことになるのかもしれませんが、ひとつ今までの中学校の技術・家庭というのが男子と女子で随分と違ってしまっておりまして、しかも、高等学校の家庭一般は技術的なことよりももうちょっと基本的な生活感覚なり生活の基礎なりということに重点を置かれていますが、中学の方は技術にしても家庭にしても随分技術的なことに終始していまして、そうじゃなくて、大改革が中学校でも必要だ。女子差別撤廃条約の要請というのは単に高校だけではなくて、中学の技術・家庭にも及んでいるのだという、これは前からそういう御答弁もいただいているわけですので、ぜひ間違いないようにしていただきたいのです。

 同時に、新しい教育課程は高校は六十九年実施、中学は六十八年で全面実施ということですが、ということは六十九年の高校一年生、すなわち六十六年の中学一年生から新しい教育課程を始めなかったら高等学校にうまくつながらない、そういう問題があるんじゃありませんか。六十八年で中学全面実施と言われるのですが、六十八年で中学三年生の子供は、家庭科を中学三年のときにはきちんと学んで、六十九年からの高等学校の男女共修にうまく乗っかれる。乗っかれるけれども、六十七年、六十六年のところでは十分家庭科を学んでいないから、突然六十八年で家庭科がどっと出てきても、高校にそのまますっとうまくつながれない。

 そこで、中学では新しい教育課程の家庭科に関する限り先取り、六十六年から男子にも家庭科をきちんと教えていく、そういうことをしなければ六十九年からの高校での家庭科の全面実施ということにうまくつながっていかないと思うのですが、この点、いかがですか。

○古村政府委員 まさに御指摘のとおりのことがあると思います。
 そこで、高等学校の新しい学習指導要領の適用を受けます昭和六十九年度の入学生が円滑に高等学校の家庭科の授業を受けられるということにするためには、中学校において必修となります家庭生活と食物に関する内容について適切な履修が進められるように必要な措置をしていきたい。こういったことは移行措置といいましていろいろな教科の中にあるわけですが、うまく新しい教育内容を子供が受けられるようなそういった移行措置については十分配慮していきたいというふうに考えております。

○江田委員 確認してみますが、移行措置というのは、六十九年全面実施だけれども、それがなかなか難しいから七十年、七十一年くらいまで後回しでその全面実施じゃなくて、前倒しで全面実施にうまくいくように移行措置をおとりになる、こういう理解でよろしいのですね。

○古村政府委員 おっしゃるとおり、後倒しじゃなくて、六十九年に全面実施になるのに用意をして動かしていくということでございます。

○江田委員 次に、今度は高等学校の方ですが、高校の家庭科、これはさっき既にお話し出ました家庭一般、生活技術、生活一般、三つのタイプの家庭科をつくる、こういうことになるんですが、ここでまたいろいろ心配がありまして、いろいろな人がいろいろなことをおっしゃる。そういう言葉の端々をちょっと神経質に聞いていますと、従来のように家庭一般というのが女子向き家庭科、生活一般、生活技術が男子向き家庭科、とりわけ生活一般、これが普通科の学生に、生活技術が職業科の学生にとか、何かそういうようなことにだんだんなっていくんじゃないかな、そんな心配をする向きがあるのですが、これはどうなんですか、そんなことがあってはならぬと思うのですが。

○古村政府委員 高等学校へ行きますと、かなり子供の能力、適性が多様化してきております。したがって、そういった子供の能力、適性あるいは興味、関心等に応じることができるために、家庭一般、それから生活技術、生活一般といった選択の幅を広げたわけでございまして、それは男女とも同じ立場に立ってそれを選択していくということでございますので、おっしゃいますようなことにはならないようにということに考えております。

○江田委員 これはやはり十分注意をしていただかないと、私もこれまでの長い家庭科のあり方から考えて、日本じゅうの家庭科に関係する人たちの頭を全部切りかえるというのは大変なことだから、そうすると、勢い男女共学校で家庭一般と、もう一つ家庭科を置いて、結果的に家庭一般は女子、もう一つの生活一般、生活技術が男子、こういうことになりかねないので、ひとつそういうことではなくて、それぞれの子供のそれぞれの個性、それぞれの選択で行えるようにということを間違いなくやってほしいと思います。

 ところで、この答申には、「施設・設備の整備や担当教員の確保等の問題など学校の実態からみて止むを得ない場合には、当分の間、「生活一般」と関係の深い技術や情報などに関する内容の科目又は「体育」の履修をもって代替できるものとする。なお、この場合においても、できるだけ早期に家庭科に関する教育を十分に行うことができるよう条件整備に努める必要がある。」こういうことが書いてありますね。初め二単位は家庭一般、生活一般を教えるけれども、後の二単位は体育その他でよろしいということが書いてあるのですが、この「当分の間」というのは一体どういうお考えなんですか。どの程度のことを「当分の間」とお考えなんですか。

○古村政府委員 「当分の間」といいますのは、教育課程審議会からの答申では「当分の間」というふうになっておりまして、それをどの辺にしていくかということについては、これから私たちの方も検討すべき問題だと思っております。

 そう長くないというふうに思っておりますが、そこのところを、それじゃ何年だということはちょっと今の段階では申し上げかねますが、そういったことでございます。

○江田委員 そう長くないというお答えなんですが、問題は施設設備ですね。現在、家庭科を教える施設設備がない高等学校というのは一体どのくらいあるのでしょう。

○古村政府委員 家庭科のない高等学校といいますか、男子だけの高等学校というふうに考えますと、男子だけの高等学校は全体で三百八十四校でございます。

 ちなみに設置者別にいえば、国立が一校、公立が百十三校、私立が二百七十校というふうになっております。

○江田委員 今の男子校が三百八十四校、それに男女共学校でも、例えば工業高校とかそういうところがあるでしょうから、細かな数字はどうだか知りませんが、全国の高等学校五千五百八のうち七百数十校ぐらいが家庭科の施設設備がない高等学校、だから一割少々ですか、そういうことだと思うのですが、そうすると、六十九年実施ですから、今は六十三年ですからまだ六年あるわけですから、この七百数十校について家庭科の施設設備を充実させるということはそう難しくないと思うのですね。当分の間、生活一般の残り二単位はその他の科目でというわけですが、施設設備を六十九年全面実施のときまでに全部整えるということも不可能じゃないと思うのです。六十九年までにはこの施設設備のない高等学校を限りなくゼロに近づけていくという努力をすべきだと思いますが、したがって、「当分の間」というのはそう長くない間じゃなくて、もうまさに限りなくゼロに近い「当分の間」にするべく努力をする、こういう答えを期待したいのですが、いかがですか。

○古村政府委員 私たちも、新しい指導要領が実施されます前にやはりそういった条件整備というものをしっかりしておきたいというふうなことは思っておりますが、現実問題、財政が絡んでくる話でございますので、都道府県の対応の仕方あるいは国庫補助金の助成措置のあり方といったことを含めて、それじゃ六十八年までに全部そういったことが整備できるかということについては、なおまだ若干の疑問がある。ということになりますと、私が先ほど申し上げましたように、「当分の間」というのは余り長い期間を置きたくない、しっかりとやれるように条件を整備をしていきたいというふうに思っておるわけでございます。

○江田委員 ぜひこれは計画をきちっとおつくりになって、計画的に家庭科の施設設備の充実をやっていただきたいと思います。

 ところで、これは小耳に挟んだのですけれども、文部省は男女共修という言葉を使わないようにしているのだとか、そういうことをちょっと聞いたのですが、そんなことがあるのですか。

○古村政府委員 言葉の使い方――男女共修という言葉を、それではいろいろな文部省の出版物等で捜してみますと、男女共修という言葉は今までは使っておりません。したがって、使わないことにしたとかしないとかということではなくて、文部省ではいろいろな指導書とかいろいろな学習指導要領とかを見ても、男女共修という言葉は使わないというのが今の私どもがとっております態度でございます。

○江田委員 その言葉遣いに何か特別の意味があるわけじゃないでしょう。共修という言葉が文部省の文章の中に入っていない。そこで使わない。使わないのは、今の家庭科というものを同じ機会に同じ教師から同じ内容を男女ともに学んでいくのだという、いわゆる男女が家庭科というものを一緒に勉強していく、そういうことを変えるというような合意があるわけではありませんね、その言葉遣いの問題について。

○古村政府委員 男女共修という言葉が言葉として、国語としてまだ熟してない、いろいろな辞典を見ても共修という言葉は出てない。そうしますと、その共修という言葉の持っている意味というものははっきり確定してないということから、今はそういった言葉は使ってないということでございます。

○江田委員 家庭科の問題はその程度にしまして、次に、学校教育の中における予防接種、とりわけインフルエンザの問題について伺います。

 まず文部省に伺うのですけれども、これは私の郷里の話になって恐縮なのですが、岡山県笠岡市で、これは昭和六十二年、去年ですが、インフルエンザの予防接種で事故が起きております。六十二年の十月十九日に、笠岡市立中央小学校というところで予防接種を行いましたが、その予防接種を受けて、一人の生徒、二年生の男子の生徒が二時間半後発病し、その日のうちに死亡した、そういう事故が起きました。

 この事件は、今、これは厚生省ですか、予防接種法に基づく被害者救済の認定の手続の最中かと思いますが、どの段階にあるのですか。

○伊藤説明員 委員お尋ねの事故のケースにつきましては、現在公衆衛生審議会の予防接種の事故の認定部会におきまして審査中でございまして、近々結論を出したいと考えている次第でございます。

○江田委員 そこで文部省に伺いますが、笠岡の例だけでなくて全国でかなりいろいろなところでインフルエンザ予防接種の副反応のケースがあるんですが、文部省はそういうことは承知されておるんですか。

○坂元政府委員 先生も御承知のとおりに、インフルエンザの予防接種は、予防接種法に基づきまして厚生行政の一環として都道府県知事あるいは市町村長が実施しておるということもございまして、すべて私どもの方に必ずしも報告が上がってこないで、第一次的には厚生省の方に上がっていくようでございます。私どもの方には、たまたま文部省にもあわせて詳細に報告しておこうという、都道府県なり市町村がそういうような場合に上がってくるわけでして、全部は承知はいたしておりません。

○江田委員 これはやはり学校現場の出来事なんですね。笠岡の場合でも、この男の子は生まれてから病気にかかったこともなかった。七月から毎週一回スイミングスクールに通っていて、そのスイミングスクールの内科医の健康診断でも異常なかった。接種の日の朝も別に異状なく送り出した。

 与謝野晶子の詩ではありませんけれども、この親御さんは子供に予防接種を受けて死んで帰れとは育ててないわけで、それが学校の体育館で受けた予防接種によってこの事故が起きたというようなことなので、その他のケースも大同小異、学校現場のことだと思うのですが、文部省として無関心ではいられないことだと思いますが、いかがでしょう。

○坂元政府委員 もちろん、私ども無関心ではいないわけでして、先生も御承知のとおりに、インフルエンザの予防接種について種々見直すべきじゃないかという議論等がなされておりまして、厚生省の中でもそういう委員会を設けて検討を続けてきておるわけでございます。

 それに基づきまして、昨年八月、先生御承知のとおり厚生省の方から、インフルエンザ予防接種の実施に当たってはその意義、効果等について十分保護者の理解を得るようにすること、それから、問診を従来以上に徹底して行うこと、それから、被接種者の健康状態に着目した被接種者及びその保護者の意向にも十分配慮するようにというような通知が出ているわけでございます。

 私どもは、その通知、その方針に沿いまして、学校がインフルエンザ予防接種に協力する場合には、十分その通知の趣旨に沿って市町村の関係当局とも連絡を密にして慎重に行うようにということを都道府県教育委員会を通じて現在指導している最中でございまして、これからもその指導を徹底してまいりたいと考えております。

○江田委員 今の指導の内容ですけれども、これは文章がかなり微妙なことをお書きなんですけれども、法制上、そういう学校での集団接種ということを文部省が何か行わなければならぬとか、いろいろ指導監督していかなければならぬとか、そういうような立場に文部省というのは立っておるんですか。

○坂元政府委員 先ほども申し上げましたとおりに、インフルエンザの予防接種は、予防接種法に基づいて厚生行政の一環として都道府県知事なり市町村長が実施しているわけでございます。学校はもちろんそれに協力するという立場でございますが、同時に、児童生徒の健康の保持をするということは学校の一つの仕事でございますので、そういう観点をも踏まえて、従来から実施場所を提供するなどの協力をしてきているわけでございます。

 私どもの立場というのは、児童生徒の健康を保持するという観点から、インフルエンザ予防接種の場合であっても、従来から指導してきているわけでございまして、一方で、厚生行政の一環であることは間違いないのですが、同時に、児童生徒の健康を保持するという立場からの指導を行っておるということでございます。

○江田委員 児童生徒の健康を保持するということは、学校の役割でもあり、そのことを文部省も各学校で十分行うように指導監督する立場ではある。しかし、予防接種というのは厚生行政の一環である。児童生徒の健康保持というのは必ずしも予防接種が唯一の方法でもないし、予防接種が児童生徒の健康保持に役に立つのか役に立たないのか、あるいは害になるのか、そういうようなことを文部省が判断する立場にもないのじゃありませんか。だから、集団接種をしろとか、しないとか、するなとか、そういうことは文部省としては各学校なり都道府県教委なりに言う立場にはないのじゃないかという気がしますがね。

○坂元政府委員 先ほど申し上げましたとおりに、インフルエンザの予防接種の問題につきましては、その効果についてどうかという議論が今なされておるわけでして、ただ、インフルエンザの予防接種にかわる効果的な有効な手段も一方で見出していないというのが現実でございます。そういう観点で、厚生省がやはりインフルエンザの予防接種を続けていかざるを得ないだろうという御判断に立って、そして、ただし、先ほど申し上げましたようなインフルエンザの予防接種を行う場合にはこういう点に注意するようにという三点の留意事項を挙げておるわけでして、文部省としましては、その三点の留意事項を十分踏まえて学校でインフルエンザの予防接種に協力する場合には実施をするようにという指導をしているわけでございます。

○江田委員 余りくどくど言っても仕方ありませんけれども、インフルエンザの予防のためにどうも予防接種しかいい手がない。しかし、そもそもそんなに予防しなければならぬような疾病であるのかどうか、あるいは予防接種しかないけれども、その予防接種にしたってそれほど予防の効果が高いというものでもないのじゃないか、そこらあたりのところが今随分議論になっているわけで、恐らく文部省としてもちょっと歯がゆいところがあって何ともやりにくいところだというようなこともあるんだと思います。

 今の微妙な言葉の言い回しを十分玩味していきたいと思うのですが、やる場合にもこれこれこういうことをよく徹底させなさいよという、読み方によってはやらないからといって文部省が別にどう言うわけでもないですよ、あるいは徹底させる中身というのはとにかく保護者の意向というものが大変大切なんですよ、その意向は十分な理解の上に出していただければいいものですよ、そういう趣旨とも理解できるわけで、その辺の微妙なニュアンスというのは余りここで詰めても仕方ないけれども、そういういろいろなニュアンスがあることですよという、これはどうなんですか。

○坂元政府委員 先ほど私がお答えしたような考え方で私どもも指導してまいりたいというふうに考えております。

○江田委員 なかなか難しいお話ですが、しかし文部省としては、現に学校現場で集団的に子供たちが受けているその中で事故が起きているというこれはぜひ考えてほしいし、厚生省の考え方の変化、扱いの変化というものもありますから、それを踏まえて、従来のようにとにかく学校が予防接種と言えば生徒は全部ずらっと並んで次から次へどっとこどっとこ受けて、まるで牛や豚にワクチンを打つみたいなそんなことはひとつ改めていくようなことを念頭に置いておいていただきたいと思っています。

 ところで、厚生省に対してですが、昨年の八月六日に出されました公衆衛生審議会伝染病予防部会の意見というものがありますね。インフルエンザの予防接種は「社会全体の流行を抑止することを判断できるほどの研究データは十分に存在しないが、個人の発病防止効果や重症化防止効果は認められている。」から、「国民が自発的意思に基づいて予防接種をうけることが望ましい」のである。そこで同日付の保健医療局長通知で予防接種の取り扱いが変わったと理解していいかと思いますが、この変わったことのポイントというのは一体どこにあるのですか。

○伊藤説明員 インフルエンザの予防接種につきましていろいろ国民的な議論がなされてきたわけでございます。そのようなことを背景にいたしまして、厚生省といたしましては、まず研究班を発足させましていろいろ医学的な観点、法的観点からの検討等を加えまして、六十一年度の研究結果を取りまとめまして研究班の報告をいただいたわけでございます。

 その研究班の報告をもとにいたしまして、インフルエンザの予防接種を実施するに当たりましては、法律上の取り扱いは予防接種法に基づく臨時の予防接種という扱いを変更することなく、しかしながらいろいろ議論されていることにかんがみ、三点でございますが、予防接種の意義や効果について予防接種を受ける人また保護者に対して十分な理解を得るような努力をするということ、それから特に事故の防止という観点から問診を従来以上に注意深く行うということ、それから被接種者の健康状態に着目した被接種者及びその保護者の意向を記入する欄を設けるなど、予防接種を受ける側の意向も十分配慮すること、そこがこの昨年の局長通知のポイントでございます。

 一言で言いますと、余り社会防衛的な考え方にとらわれることなく、受ける人たちの自発的な意思というものを尊重した予防接種行政をインフルエンザにおいても進めていくべきである、こういう考え方に立つものでございます。

○江田委員 ちょっと念押しですが、余り社会防衛的な見地に立つのではなく、受ける人たちの自発的な意思を大切にする。受ける人たちのというのは、受ける人たち集団のという意味ではなく、受ける人個々人の、あるいはその保護者も含めてですが、そういう個々人の自発的な判断、自発的な意思というものを重視してこの予防接種体制というのを考えていく、そういうものの積み重ねでそれが社会防衛になるなら大変結構なことだ、そういう考え方でいいのですか。個々人の、受ける人たちのというところをもうちょっと念押しですが。

○伊藤説明員 予防接種につきましては、法律上国民の義務という考え方に立っておりますけれども、予防接種を行うに当たっては、接種を受ける人たちの十分な理解というものを前提にして進めていくべきであるという考え方に立つものでございます。

○江田委員 だから、余りそれ以上詰めてもお答えがないのなら仕方がないけれども、人たちのというのは、ある集団で考えているのか、それとも個々人のということで考えているのか。

○伊藤説明員 予防接種につきましては、予防接種をすることによりまして社会の構成員の一定以上の人たちに免疫を付与することによって伝染病の流行を防止しようというのが一般的な考え方でございます。しかしながら、いろいろ予防接種を行っていくに当たっては、そういう社会防衛的な考え方だけではなく、予防接種を行うことがその個人にとっても非常に利益になるのだという考え方もあわせて予防接種行政というものを進めていくべきだという考え方でございます。

○江田委員 わかりました。
 全体の流れとして、法律上の義務にはなっておる、義務にはなっているけれども、別に罰則もないし、また今の個人の判断というものが基礎にあって行われるべきものである、自発的意思を尊重する、そういうことに変わってきているわけで、言ってみれば、義務接種というのは法律上の根拠を与えて予防接種法の被害者救済にのっけるという、そういう意味で義務接種ということになっているだけであって、何かまあ、義務接種か任意接種かという言葉のやりとりをしても仕方ないけれども、基本的に一人一人の国民が自分の任意な判断で受けていくものですよ、そういう大きな変化の流れが今のこの流れだというふうに理解をしたいと思うのですが、それはそれでよろしいですかね。

○伊藤説明員 予防接種法では、国民に予防接種を受ける義務というものを書いておりますけれども、これは五十一年の法改正におきまして、罰則をもって受けることを強制するというようなものではないという考え方に変わってきているわけでございます。先ほど来申し上げておりますように、国民の理解と協力に基づいて進めていくというのが基本的な考え方でございます。

○江田委員 国民の理解と協力ですが、今、接種率が、これは昨年でしたかね、四二%まで下がっておるわけで、ことしはもっと下がるんじゃないか。地域的にもいろんなばらつきがありまして、市町村でもうやっていないところも随分ある。国民の理解でそういう数字になっておるとこれは言わざるを得ないと思うのですが、この接種率というものが、これからすばらしいワクチンが開発されるなら別ですが、どうも今のようなワクチンだともっとこの数字が下がることもあるかと思うのですが、余り数字にこだわらずに、いや、これは何%まで上げなければならぬのだなんというようなお考えを持たずに、ひとつ本当に国民の十分な理解を得て、自発的に受けていくという人たちを選んでやるならやるということにしていただきたいと思います。

 問診票が随分変わりましたね。今回のインフルエンザの予防接種は「見合わせます。」「受けます。」これをとにかく最初に書いていただいて、それから後、問診の細かなことがずっと出てきている、そういうような問診票に変わっていると思うのですが、これはどうなんですか、厚生省が全国的に指導してこういう問診票に変わった、こういう理解でいいんですか。

○伊藤説明員 昨年八月六日付の保健医療局長による通知とあわせまして、一つの例として厚生省から地方自治体に示したものでございます。

○江田委員 そうすると、いっそのこと、「受けます。」という子供たちは問診票を持っていらっしゃい、だけれども、「見合わせます。」というのまで、別に持ってこさす必要はないんじゃないですか。「見合わせます。」という問診票をお医者さんが、別に何か健康状態なんかチェックする必要も何もないわけで、医者にチェックさすことによって医者の方は、予診ですか、何かそれで金が入るという、そういう仕組みになったりしているんじゃないですか。どうなんです。「見合わせます。」という子供にまでこの問診票を提出させる必要があるんですか。

○伊藤説明員 私どもの厚生省から示しました問診票の基本的な考え方は、いろいろ保護者に健康状態を観察していただいて、それを一番最後に総合的にそのような状況を保護者が判断していただいて、今回のインフルエンザの予防接種を受ける、見合わせる、そういう保護者の意向を記入していただく欄を設ける、こういう考え方でございます。最初に、健康状態とは関係なく受ける、受けないという考え方はとってないわけでございます。

○江田委員 これはまだまだしばらく議論が続くことだと思いますが、ところで、予防接種法によると、都道府県知事がその流行の状況などを見て、やるかどうか、やることが必要かどうかを判断する、こういうことになっていますが、これはいいですね。都道府県知事がその必要性についての第一次的な判断権あるいは判断義務、これを持っている、これは法律上、そのまま素直に続めばいいですね。別に厚生省の方がその権限を持っているんですよなんということはないですね。

○伊藤説明員 実施義務者は都道府県知事でございます。ただし、「市町村長に行わせることができる。」となっておりまして、ただ、都道府県知事に国の機関委任事務として委任しているという考え方をとっております。

○江田委員 実施のことをじゃなくて、その実施の前の必要性の判断。

○伊藤説明員 実施することは都道府県知事の判断でございますが、国の機関委任事務という立場をとっているわけでございます。

○江田委員 もう時間がありませんが、各都道府県の衛生部長さんたちの集まりで全国衛生部長会というのがありますが、六十四年度の要望、インフルエンザを含め予防接種法対象疾病の見直しをひとつやってほしい、こういう要望が出ていたり、それから社団法人日本小児科学会からも要望書で「インフルエンザ予防接種については、より個人防衛に重点をおいた接種方式の採用が望まれる。」こういう要望書が出たり、従来のものと違ったやり方をひとつ考えてくれないかという、いろんなそういう声が高くなっているかと思うのですが、こういうような声にこたえて検討をする、そういうお考えはありませんか。

○伊藤説明員 全国衛生部長会からの要望及び日本小児科学会からの要望等については承知をいたしているところでございます。インフルエンザの予防接種につきましては、昨年の八月の公衆衛生審議会の意見を踏まえました通知の線に沿って当面は実施していくという考え方でございますが、予防接種のあり方につきましては、今後とも従来同様、医学水準や社会状況の変化も踏まえまして、必要に応じ審議会の意見も聞きながら検討してまいりたいと考えております。

○江田委員 大臣、これはなかなかいろんな難しいやりとりがありまして、今のインフルエンザが効くとか効かないとか、必要だとか、安全性がどうだとか、これもまた、ああ言えばこう言うでいろいろな議論があるのですけれども、私は、厚生行政と文教行政とおのずと視点は違うのだろうと思うのですね。

 厚生行政の方からいえば、それは病気はもうない方がいい、国民はいつも健康な方がいい。しかし、教育というのは必ずしもそうじゃないので、病気になったときに初めて、ああこんなことをしていたら病気になるんだなということを勉強するとか、病気になって熱を出して寝ているときにお母さんが温かいおかゆをつくってくれて、そんな思い出がずっと生涯残るとか、そういうときにこの弱い人たちの気持ちが本当によくわかる子供になるとか――先ほどの「小学国語」五年生の司馬遼太郎さんの「洪庵のたいまつ」でこんなところがあるのですね。緒方洪庵は「生まれつき体が弱く、病気がちで、塾や道場をしばしば休んだ。少年の洪庵にとって、病弱である自分が歯がゆかった。この体、なんとかならないものだろうかと思った。」その後ですが、「人間は、人なみでない部分をもつということは、すばらしいことなのである。」「人なみでない」というのは、人並みすぐれてではないのですよ、逆ですね。「そのことが、ものを考えるばねになる。」

 そういうこともあるわけですから、病気の性格をよく見て、それが将来大変な重篤な後遺症を残すとか命を落とすとか、そういうものはこれはもうあってはいけませんけれども、多少寝ていれば治る、安静にしていれば治る、そんなような病気まで一切学校にはない方がいいのだというような、そういう考え方じゃない方がきっと――もうちょっとおおらかに、学校教育というのは骨太な教育というのを考えた方が多分いいのだろうという気もするのですが、これはインフルエンザの予防接種についてどうかということでなくて、基本的にそういう病気と教育ということについて、もし大臣にお考えがありましたらお聞かせください。簡単で結構です。

○中島国務大臣 私、伺っておりまして、病気に関しましては、特に、教育上からいけば、学校健康教育課というものを文部省につくりました。しかし、つくったからいいというのではなくて、この件に関しては特に学校教育と家庭とそれから社会、こういうものの連携がぜひとも必要だと思うわけであります。

 先生がおっしゃいますように、私は常々申しますが、父親でも母親でも、小さい赤ちゃんを育てるときに、泣き声一つでおなかがすいているのか、おしめをぬらしているのか、そういうものを聞き分けられた親たちが、その後、成長に従っていろいろな精神的なシグナルあるいは健康上のシグナルを発しておるわけですから、それを聞き分けられないはずがない、こう考えておるわけであります。

 しかし、厚生省さんは厚生省さんのように、公衆衛生審議会の意見をもとにして昨年八月に発表されましたその中の字句を見ましても、例えば接種にいたしましても、被接種者と同時に、その健康状態を一番知っているであろう保護者の意識に従ってやろう、こういうことでございます。それはまさに健康という行政から見ても、学校という場をかりておるけれども、実際にはその被接種者の保護者である父兄の意見を一番尊重しよう、こういうことであろうと思いますので、学校教育の中では、特に教育と社会とそれから家庭の接点をよく見きわめながら進めてまいりたい、このように考えております。

○江田委員 学校という場で集団的にやらなきゃならぬ理由あるいはやるべき法的根拠がどこにあるのかという問題をもうちょっと本当は詰めたかったのですが、ちょっと時間の方がありませんので、同僚の佐藤委員の関連質問をお許し願いたいと思います。


1988/10/21

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