朝日新聞社「一冊の本」1999年2月号掲載

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政治家の本棚 35  ◎インタビュー 早野 透(朝日新聞編集委員)

もう一度「二十四の瞳」に戻らねば……

―― 岡山で育ったんですね。

江田 岡山市で生まれて、すぐ神戸に行って、戦争中は中国に渡って、戦後引き揚げてきて、後はずっと岡山市、高校を出るまでね。

―― 父、三郎さんは……。

江田 父は今の一橋大に入って、体をこわして郷里に帰り、農民運動の指導者の演説に聞きほれ、政治活動に飛び込んで県会議員をしていたんです。

―― 浅沼稲次郎や三宅正一、戦前の農民運動の洗礼を受けた世代ですね。

江田 草の根型というか、どっしりと座り込んで酒を飲み、めざしをかじりながら話をする。そこから心を開いていく。それを積み重ねていたんでしょうね。

 農家に、わらぐろってありますね、わらを積み重ねて。憲兵に追われてわらぐろに隠れて逃げながら家から家へと……。給料をちゃんともらう安定した生活なんておよそかけ離れていた。家もざあざあ雨漏りした。

―― 後年、五月さんが政治集団「シリウス」をつくりましたが、あれはお父さんにちなんだ命名でした。

江田 戦争反対で刑務所に二年八ヶ月かな、入れられて、その間、母は行商をして支えた。母が父へ差し入れに行ったときに、十一月かな、冬の空にだんだんシリウスが上がってくる。父が「シリウスはまだ見えんか」と言ったと。

―― 小学生のころは……。

江田 僕が小学二年、父が参議院に初当選したとき、僕も手伝ったんですよ。子供の日に、街頭演説でマイクを持って「今日は休みなので、お父ちゃんの応援に来ました」。その写真が残っている。まだ未成年者の選挙運動は禁止じゃなかったんですよ。

―― どんな子供だったんですか。

江田 ひ弱な、ちっちゃな、やせっぽちで、いつも朝は遅刻ぎみで、先生が「江田君、来ている? 来ていたら授業を始める」というそんな感じだったみたいですが。みんな青ばなたらし、やせて、シラミがいてという時代ですよね。

 参議院に出た父は、地元に帰ってこないわけですよ、めったに。党の新聞「社会タイムス」をつくるとか、組織のどろどろしたことをやっていて、新幹線もないし、月に三、四日しか帰ってこなかったんじゃないですかね。でも、帰るたびに本を買って帰ってくれてね。それが本との出会いですね。

―― なるほどな。

江田 銀座に近藤書店というのがあるんですね。いつもそこの小さなラベルが張ってあった。東京駅に向かうときに寄って、自分の本を買ったり、ちょっと息子に一冊ということだったんでしょう。だいぶ後になって東京に出てきて「ああ、ここがあの本屋か」と。

―― どんな本でした?

江田 父は文学青年、ヒューマニズムだから。「家なき子」「十五少年漂流記」「厳窟王」だとか。小学校の高学年になると、岩波少年文庫のドリトル先生のシリーズなんか読みました。

―― うわあ、なつかしい。

江田 父が帰ると、みんなで鍋をつつき、一杯飲みながら談論風発やっているわけですが、その横で僕は寝っころがって本を読んでという感じでね。父の周りは大人に囲まれて、僕らは近寄れない。本を買ってくることで、子育ての手伝いをしていたつもりなんですかね。

―― お母さんはずっと……。

江田 母はずっと岡山で。「社会タイムス」がお金をどんどん食う。先日亡くなった大柴滋夫さんは「おまえのおやじには、おれらはよく飲ましてもらった。給料のほとんどをおれらが飲んでしまった」どか言ってね。

―― それで貧乏だったんだ。

江田 小学校の終わりかな、中学の初めかな、今でも心に残っているのは壺井栄の「二十四の瞳」なんですよ。これは何度も何度も読み直した。

―― いい本ですね。

江田 後に日教組はあの本を批判しているとか聞いて、「ええ? どうして」とか思ったけど、教師を聖職として没頭するのは、教組が求める教師像とは違っていたのかもしれませんけどね。

―― 一本松を目印に、足をけがした大石先生の所へ小学一年生の子供たちが訪ねていってね、とぼとぼと。

江田 のちに戦争で目の見えなくなった磯吉が、そのとき写した写真のこれはだれ、これはだれと指す。微妙にその位置がずれているんですね。うどん屋に奉公に出たマッちゃんに修学旅行先で出会った話もあったな。うちの子供たちに読ませようとするんだけど、今はああいう感じはわからないのかな。それから「路傍の石」「次郎物語」。

―― いずれも少年の心に響く物語でしたね。

江田 思い返してみて、高校の時に重く感じた本が「生活の探求」。

―― 島木健作ですね。

江田 プロレタリア文学なども読んでみようかと小林多喜二の「蟹工船」、それからジャンルが違うのかも知らんけど、林芙美子の「放浪記」とか。

―― プロレタリア文学は、なぜ。

江田 労働者という感じよりも、生活の泥臭さというか……。「生活の探求」は、むしろ農家でしょう。何かずっしりした、この野郎という感じのいきざまですよね。多喜二の「党生活者」などは、まさに地下の秘密党員の生活だけど、ああいうのはあんまり好きじゃなかった。しかし僕は、高校のときには水泳と書道に没頭していたんですよ。水泳は古式泳法で。ちなみに、今神伝流九段、範士なんです。それから書道のクラブで、漢詩に触れますよね。岩波で漢詩の全集が出て……。

―― 薄目の本ですね。

江田 山吹色の布か何かの装丁の。それをずっと買って。「詩経国風」という巻があって、杜甫とか李白とかの前の時代ですかね。「桃の夭々たる」なんていうのは、何かふわっとしたいい詩だなという感じでした。

 ただ僕は歴史が嫌いでね。年号をいっぱい覚えるのが嫌いで。しかしこれじゃいかん、教科書じゃない本を読んでみようと、「玄奘三蔵」という本を買ってきて読んだ。岩波新書に手を触れた最初だったんじゃないかな。

―― 何か理科系の雰囲気ですね。

江田 そうなんです。高校三年のときには、数学は数IIIまで、理科は物理と化学。社会は世界史と人文。日本史はやらない。日本史の明治以後については、その後勉強したけど、それ以前についてはどうもよくわからないですね。

―― でも東大は文一でしたね。政治家になるのを意識していました?

江田 政治の本当のことはよくわからないけれども、父は正義のために何かやっている、自分も正義のために何かやりたい、それは政治だという感じはあったでしょうね。でも、まだプリミティブですから。東大を受けて、もうちょっと勉強していれば通ったなと。受験勉強を始めたのは、一月半ばですから。

―― ところが、通っちゃった。昭和三十五年でしょう? 安保闘争のあの渦の中に。

江田 まっただ中に飛び込んでしまったという感じですね。大学に入って自治会の委員を選ぶというから、手を挙げたら選ばれた。そのとき立候補した者はたくさんいて、短い演説をした。「みんな国会、国会と言うけど、本当に世の中を変えようと思うんだったらやっぱり地域からで、まず町へ入っていかなきゃいけないんじゃないか」というようなことを言ったりしたのかな。

―― なかなか新鮮な演説ですな。

江田 結局は、学生運動の中にのめり込んでいくんですけどね。

―― 六・一九のときには国会近くのデモの中にいたんですか。

江田 六・一九はいないんですよ。なぜいないかというと、六・一五であの状況を見て、これはだめだと。もうこのままで安保条約は成立してしまう。やっぱり地域に帰らなきゃと、岡山へ帰って、友達といっしょに夜の町を携帯マイクで演説して歩いていた。

―― それからは。

江田 僕が大学へはいる直前に父が社会党の書記長になって……。当時、社会党は青年運動に乗り出していて、僕はその社青同構革派に入って。二年生の秋に、社青同もだれか自治会の委員長に立候補させようという話になる。「現役で入ったおまえ、一年ぐらいいいだろう」「それはいいよ」と言って、まあ、通るとはあまり思ってなかったんですけどね。

―― しかし当選しちゃった。

江田 それから、二年から三年に上がると学部が変わって自治会が変わるから、委員長がサヨナラとなる。それでは無責任だというので、二年の後期の試験は一つだけ単位を落としたんですよ。それで留年して。

 五月だか六月だかに、半年の任期が切れる。当時は社青同の分派も非常に入り乱れて、ほかの所も無茶苦茶になっていましたけどね。嫌気がさしてはいたんだけど、もうちょっと続けようと。出たら、委員長は僕が通ったけど、副委員長は社学同が通っちゃったんですよ。それが大蔵省に行った中島義雄くん。ねじれ執行部だったけど、どっちみち一派だけで多数派というのは無理ですから。社青同と社学同とフロントの三派で動かした。当時から連合政権の訓練をしたんです。

―― どころで、読書はどうなっていました? 大学に入って。

江田 マルクス主義の本はずいぶん読みましたね。東京出身の学生は、高校のころに「共産党宣言」だ「空想から科学へ」だと読んでいる。僕はびっくりしてね。マルクス、エンゲルス、レーニン、毛沢東など一生懸命読んで。

―― で、どんなふうに。

江田 なるほどと思ったり、よくわからなかったり。なるほどこんなものを書いて、これで世界がワーッとなっていって、歴史が動いてきたんだなと。ロシア革命、中国革命。「中国の紅い星」でしたね、エドガー・スノー。心ときめかしたりしました。それから、E・H・カーの「ロシア革命史」。

 しかし、ソ連とか中国はちょっと違うんじゃないかと感じだした。当時、中ソ論争なんて言うのがあって、どっちかというと、我々はソ連派なんだけど、あんまりおもしろくないんですよね。これはやっぱりもっとさかのぼってみなきゃいけないというので、フォイエルバッハやローザ・ルクセンブルグ。猪木正道さんの「共産主義の系譜」、おもしろかったですね。

 それと中岡哲朗さんの「現代における思想と行動」という三一書房の懸賞論文。別に「倫理の優越と論理の不毛」という論文もあって、これは、ちょっとなるほどと。つまり、たとえば江田三郎を非難するのに、よその党の理論を借りてきてけしからんとか、銀座で酒飲んだりゴルフしたりけしからんとか。つまり倫理が優越して論理が不毛なんですね。

―― それはそうと大学を退学になっちゃったでしょう。

江田 あれは、大学管理法反対のストライキ。当時、ストライキを提案した者、提案を受け付けて議長をやった者、それからストライキを実際に指導した者、これは処分。僕は一人で全部背負うつもりだったんですけど、残念ながら一人で背負いきれなくて、僕は退学、中島君は停学になっちゃった。そして復学して法学部にいきました。

―― さて、そのころの読書は。

江田 友達といっしょにサミュエルソンの「エコノミクス」、英語で読んだですね。あれはわかりいいんですよ。それまでマルクス経済の本しか読んでなくて、「エコノミクス」に出会うと、がらっと変わるんですね。こういう学問の世界があるなと。そして丸山眞夫先生に出会ったという感じですかね。「超国家主義の論理と心理」「日本の思想」。

 そして丸山ゼミに入ったころに、ルース・ベネディクト「菊と刀」とか、次々読みました。いろんなものに出会ってみて、これはあまりにも不遜だったぞと。やっぱり学問の道を一生懸命進んでいる人たちには、学ぶべきものがあるなと改めてそんな感じがして、一生懸命勉強し出した。もう後二年しかないですから、勉強する期間が。

 たとえば宮沢俊義「憲法II」、三ヶ月章「民事訴訟法」。それから我妻栄「近代法における債権の優越的地位」。川島武宜「所有権法の理論」。おもしろかった。

―― その辺から江田五月の世界ができてきたんだな。

江田 司法試験を受けたら通っちゃった。これも別に通るつもりなかったんですけど。丸山先生が「政治の勉強は将来もできる。法律は学生のうちじゃなきゃやらないから、リーガルマインドは大切だから」と言って……。

―― そんなことをアドバイスしてくれたのか。

江田 しかし労働弁護士になっていずれ父の後を継いでというのでは、いかにも決まり切った道でおもしろくない。それはごめんこうむりたい。転向かもしれませんが、裁判官やってみよう。その決心をしたのは、このころ司馬遼太郎の「竜馬が行く」を読んでです。脱藩なんです。

 僕は裁判官としては、自分でいうのも変ですが、なかなか仕事はやりました。父が社会党を離党するときには、これで生涯裁判官をやれると思ったんですけどね。もう政治の世界へ引き戻す力は働かないだろうと。父が突然亡くなって裁判官をやめるんですけどね。

―― 参議院の全国区でしょう、初めに立候補したのは。全国を走り回ったのですか、二位当選でした。

江田 いえいえ、病気で寝ていた。胃を切って。運動期間の半分は寝ていたんですよ。これはもう全く情報化時代だから通ったようなもので。

―― 妙に幸運が働いていますね。

江田 国会議員になってからは、本当に本を読んでなくて、恥ずかしい次第でね。

―― 今の政局、どんな感じです?

江田 やっぱり何か違うんじゃないかなという感じがして仕方がない。こんなことしていて日本はどうなるのという、何かそんな気がしてね。そうすると、「二十四の瞳」の世界のところへもう一遍戻らなきゃいけないんじゃないか。そんな感じがして仕方ない。


◎対談後期◎
 政界再編の動乱のなかで、江田五月氏はあまり順調だったわけではない。中央政界から転進しようとした岡山知事選に一敗地にまみれ、参院選でようやく復帰したところである。
 しかし氏はおそらくいま、いちばん自然にその人生の培った価値観を発露できる場所にいるであろう。そして、氏の原点には、あの人間愛と反戦の物語「二十四の瞳」がある。(早野)


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