2015年8月7日

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8月7日 山口鶴男さんへの弔辞


 山口鶴男さん弔辞

山口鶴男さん。
四日の民主党本部の常任幹事会に駆けつけると、入り口で記者さんに「山鶴さんについて一言」と止められました。「えっ、何の話?」と聞き返すと、まさかのご訃報で、耳を疑いました。先日の田邊誠さんに続いて、こんなに早くあなたの悲報とは、いまだに信じられない思いです。また一人、歴戦の勇士が斃れると、寂しさと懐かしさばかりが先に立って、なかなかお別れの言葉が出ません。

山口さんは本当の先生でした。あなたは、終戦後直ぐに教職に就かれ、民主主義を教えられました。長い軍国教育の呪縛から解放され、手探りで「綴り方教室」をはじめ新しい人間像を求めながら生徒たちに向き合った先生たちの先頭に立ち、あなたは教職員組合運動に参加して、県議を経て一九六〇年秋に日本社会党から衆議院選挙に挑戦し、初当選されました。六〇年安保が終息し、池田首相が岸内閣の悪夢を一掃して「寛容と忍耐」などと唱えるのですが、選挙直前に選管主催の演説会で浅沼稲次郎社会党委員長が刺殺され、騒然とした中で、私の父・江田三郎が委員長代行となって選挙の指揮を取りました。テレビ討論が始まったのもこのときです。私は当時、一九歳で大学一年生。父の鞄持ちで選挙遊説について行きました。札幌での横路節雄さんの街頭演説会は、大通公園の広場がぎっしりと人で埋まり、選挙は社会党勝利に終わりました。その選挙で、福岡では楢崎弥之助さん、東京では大柴滋夫さん、ここ群馬では田邊さんが、いずれも初当選しました。

若いリーダーのあなたは、颯爽と議会政治の場に登場しました。しかし、安保闘争の反省に立って、構造改革論に基づき「護憲・民主・中立」の政権構想を掲げた社会党は、左派の反発を受けて路線論争に明け暮れることになってしまいました。そうした中であなたは、父が構革論の旗印で新しいグループ活動を始める際、同じ教員出身で先輩の横路さんのアドバイスで、その旗の下にオリジナルメンバーとして参加し、以来一一期の当選を重ね、まさに江田三郎の若き盟友となって大活躍をされたのです。その中で一度、あなたは本当に僅差で苦杯をなめ、父が仲間と一緒にあなたを激励に草津を訪ねたことを、あなたは大変に喜んでくれましたね。その父は、あくまで現実政治の中に食い込んで政権交代のある民主主義を実現しようと、いわゆる江公民路線を掲げましたが、党内の路線対立は激しさを増すばかりでした。父が「新しい日本を考える会」を立ち上げた直後に、七六年暮れの総選挙で苦杯を舐め、七七年春に「誰も付いて来るな」と言って一人で社会党を離党し、直後に急死。その日は私の誕生日でした。そこで私もその流れに飛び込み、社市連から社会民主連合となりました。社会党と社民連の関係は愛憎半ばするものでしたが、山口さんたちは私たちの悪戦苦闘にエールを送り、社会党の中で生まれたニュー・ウェーブなどの動きと社民連の私たち若手が連動するのを、温かく見守ってくれました。まさに往時茫々です。

八六年総選挙の結果は、院内交渉団体の数のバランスが悪く、また私たちは野党結集による「連合新党」構想を世に問うたこともあって、社民連の四人の衆議院議員を二人ずつに分けて、私と菅直人さんが社会党と、楢崎さんと阿部昭吾さんが民社党と、それぞれ統一会派を組みました。政党も、自分自身の肉体を引き裂いて接着剤になることも出来るのだと、身をもって示したのです。そのとき山口さん、あなたは社会党の書記長という要職にあって、私たちの試みをしっかりと受け止めてくれました。本当に有難かったです。

あなたは要職を歴任されましたが、何といっても国対委員長が抜きんでており、「歩く先例集」と言われたりしました。あなたは、「国対が自分の仕事で、裏も表も駆使して自分たちの方針を通す。政策は自分の仕事ではない」と、しばしば言っていましたね。しかしあなたは、政策にももちろん通じていて、本当に政治の助けが必要な人たちのために何をすべきかを熟知していました。あなたの地元草津には、国立ハンセン病療養所「栗生楽泉園」があり、入所者の皆さんにしっかりと寄り添って、役所と骨の折れる折衝にも汗をかかれました。超党派国会議員の集まりである「ハンセン病対策議員懇談会」は、当時は自民党の皆さんの理解を得られず、会長は置かずに事務局長体制で運営していましたが、あなたはずいぶん長く、この事務局長を務めてくれました。私は一九七七年に参議院に初当選し、父との関連もあって議員懇談会に参加してあなたのお手伝いをし、しばらくして事務局次長をお受けすることになりました。今では与野党の垣根を越えて多くの有力与党議員の皆さんの協力もいただき、隔世の感があります。苦しい時代にあなたと一緒に汗をかいたことは、貴重な経験となっています。

山鶴さん、あなたは九三年の細川内閣成立から翌年の瓦解を経て、九四年に羽田内閣が立ち往生した時、社会党の中で自社さ路線を主導され、村山内閣成立に至りました。私は社民連代表として細川内閣に加わり、自社さ路線と厳しく対立しました。その後、紆余曲折を経て民主党結成となり、社会党は社民党と名を変えて現在に至っています。私は今、本当にあなたの答を聞きたいです。安倍政権は、自社さを主導した当時の自民党の指導的立場の人でさえ、「極右」と断じる路線を取っています。憲法を神棚に上げるつもりはありませんが、ここまで露骨な憲法秩序への挑戦はこれまで見たことがありません。集団的自衛権行使容認で平和主義をないがしろにし、特定秘密や言論弾圧で民主主義を掘り崩し、「世界で一番企業が活動しやすい国」といって働くものの生活を直撃する「基本的人権の尊重」と正反対の方向を進めています。九〇年代半ばの非自民の離合集散は、「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の」だったのではありませんか。今こそ、「われても末に 逢わんとぞ思う」という百人一首の崇徳院の心が求められているのではないかと思うのです。戦後七〇年、国民みんなが大きく得難い経験をしてきたはずです。その国民的経験を、歴史のエピソードに終わらせてはなりません。

山鶴さん。そろそろお別れの時です。昨日の午後、私は地元岡山市で、民主党の岡田克也代表らと一緒に、「安倍政権の暴走をただす全国キャンペーン」の街頭演説をしました。まさに炎暑の中でしたが、向かいの路上では、多くの人たちが足を止めて聞いてくれました。その中に私は、はっきりと見ました。あなたが愛してやまない日教組の仲間の皆さんが、ある人は澤地久枝さんたちの「アベ政治を許さない」というビラを持ち、ある人は濃いピンクの日教組ののぼりを持って、話を聞いてくれていたのです。あなたたちが築いてきた人間に対する限りない愛情に裏打ちされた政治を、ここで捨てることは出来ません。今、政治の渦中にいる私たちを包む雰囲気は、ちょっと荒れてささくれだった寂しさが漂っています。もう一度、あなたや田邊さんたちと一緒に頑張った当時の、心の浮き立つ政治を取り戻したいと思います。ぜひ、天国からお導きください。
山口鶴男先生、さようなら。

二〇一五年八月七日

参議院議員 江田五月


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