2012年7月20日

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須藤立己さんお別れのことば


弔辞

 須藤立己さん。一昨日の夜に届いたあなたの急逝の一報ほど、私を驚かせた知らせを、これまで私は経験したことがありません。私たちは、東京スカイツリーの良く見えるレストランで、ちょっと早い暑気払いをしていました。スカイツリーの照明はうすい青色で、その後ろの空には時々稲光が光って、今にも降り出しそうな雲を浮かび上がらせていました。天もあなたのご逝去を悼んでいるようでした。

あなたのご家族と私たちが知り合って、かれこれ30年近くになるのではないでしょうか。私が郷里の岡山で衆議院議員を目指そうと、家族連れで戻ってきて間もなく、あなたのお宅でホームミーティングをしたのではないかと思います。誰が引き合わせてくれたのでしょうか、今となっては記憶も定かではありません。あなた方は根っからの市民派で、「儲けて何ぼ」とは正反対に廉潔を貫き、人を大切にし静かに正義を求めてこられました。

 特に私が知事選に敗れた後は、ホームページの開設に力を貸してくれ、その全くのボランティア精神でのご尽力に、私もさぼるわけにいかず、活動日誌の毎日更新はすでに10年を優に超えました。私が夜中に酔いを振り払って原稿を作り、写真と一緒にあなたに送ると、あなたは仮眠から起きてチェックのうえリンク作業まで加えて、これをアップしてくれました。時には夜中の3時、4時になったのではないでしょうか。

 あなたが旅行に出るときは、機器を携えて出掛けられ、旅先で作業をしてくれました。私が海外にいるときは、時差の関係で私の送信は時を選ばず、あなたの生活のリズムは無茶苦茶になったのではないでしょうか。あなたの執念で、私のホームページは手作りの温かさで人を引き付けました。とてもプロにはできない技です。しかも内容は充実し、実はマスコミ関係者も情報源としてよく利用していました。

 5月下旬に、私は訪中して、いつもの通り数多くの写真とともに活動日誌をあなたに送りました。帰ってきて聞くと、あなたはその前から発熱が続き、検査をしてもなかなか原因が特定できず、体力も相当消耗していたとのことで、この間の活動日誌の更新は辛かったようです。ちょっと体力に自信がないからと、5月末でホームページ作業を卒業するとの申し出でを受けました。これ以上、無理をお願いすることは出来ません。私の事務所スタッフに引き継ぎをお願いしましたが、なかなかあなたの仕事を引き継ぐのは容易なことではないようです。当たり前ですよね。

 6月に入って、あなたの病状がただ事ではないことを聞き、電話で話しましたね。あなたは明るく、まあ、「仕方ないよ」と割り切っている様子でした。しかし、あなたはいつも、結構あらゆることに配慮を行き届かせ、人に無用の心配を掛けまいとする性質でした。その時も、私への優しさから無理矢理に明るく振舞っていたのだと思います。私も嘆き悲しむわけにもいかず、「そのうちお見舞いに行くから」と電話を切りました。それからわずか1ヵ月少々で、訃報が届くとは、誰が信じることができるでしょうか。

 立己さん、あなたの飄々とした姿は、もう目にすることは出来ません。しかし、なにかまだ、あなたの魂がその辺に静かにたたずんでいるような気がします。もともとあなたは、俺はここにいるぞと、自分の存在をひけらかすようなことは全くありませんでした。ですから、私たちは誰も皆、あなたが今も生きてその角のあたりに黙って立っていても、全然驚かないのです。どうか、私たちを見ていてください。あなたのご家族の皆さんも、そして私たちみんなが、こっそりとあなたの目を意識しながら、正しいことを貫き、この世の中を少しでも、明るく暖かく心の通ったものにするために、これからも小さな力を尽くしてまいります。

 今はただ、ゆっくりとお休みください。須藤立己さん、さようなら。

平成24年7月20日

参議院議員 江田五月


2012年7月20日

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