2006年3月8日

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故森本徹磨氏 民主党・岡山県議会・森本家合同葬 式辞


春弥生の5日、どこからか東風に乗って、馥郁とした梅の香りが漂ってくる中、私たち誰もが敬愛する森本徹磨さんが、忽然としてこの世を去られました。午後6時49分のことで、行年65歳でした。ここに、民主党、岡山県議会、森本家の合同葬を営むに当たり、葬儀委員長として式辞を申し述べます。

五日午後七時前、まもなく東京駅のホームに滑り込もうとする新幹線のなかで、私の携帯がなり、地元から徹磨さんの訃報が伝えられました。午前中は、連合岡山の春季生活闘争総決起集会とデモ行進があり、快晴で暖かい早春の日差しの中で、久しぶりにシュプレヒコールの声を張り上げました。その後、京都で用を済ませて、翌日からの参議院予算委員会の質問戦に、民主党の議員会長として陣頭指揮を執るため上京したのです。地元を発つとき、徹磨さんの病状が深刻になっていると聞いて覚悟はしていましたが、それにしても早すぎるお別れでした。

私がその日に参加していた労働運動は、徹磨さんが人生を賭けて取り組んだ活動舞台でした。あなたは、昭和17年8月1日、ご尊父薫さん、ご母堂高野さんのご長男として生まれ、藤田の小、中学校を出た後、県立倉敷商業高校に進み、野球少年でキャプテンを勤められました。卒業後は電電公社に就職した後、ここでも野球チームの豪腕投手として大活躍されましたが、おじ上が、戦前から無産運動に身を投じ、戦後まもなく衆議院議員を勤められた重井鹿治さんで、ご尊父も熱心に政治活動に取り組まれていた影響もあって、早くから労働運動に身を投じ、終生この路線を貫かれました。労働組合指導者には珍しく、体育会系の感性で方向感覚をつかみ、時代の要請に見事に応えて来られました。スト権ストをはじめとするあなたの指導力は、抜群でした。そしてあなたは、全電通労組の県支部委員長として、足並みの乱れていた労働運動の統一に執念を燃やし、連合岡山の初代会長として二期四年、最も苦労の多い時代の采配を振るわれました。

七年前、あなたはそろそろ、労多く報われることの少ない反権力の最前線を降り、奥さん孝行に努めようと思っていたのではないでしょうか。そこに私は、県議選出馬と言う難題を突きつけました。その前の年にスタートした民主党にとって、県議選の岡山市第二区は絶対に見送りは許されないのに、候補者がいませんでした。ご家族の願いも、そろそろゆっくりしたいし、させたいということだったと思います。私は無理矢理、頼み込んで、受けてもらいました。徹磨さん、あなたは安宅敬祐市長選挙があり、県議選の取り組みは二ヶ月でしたね。しかし見事に、当選を勝ち取られました。そして四年後再選。あなたは、初当選のときから、最も存在感のある議員の一人でした。

それ以前から、私の選挙はいつもあなたにお世話になりっ放しでした。1983年の最初の総選挙では、全電通という老舗の労働組合組織を抱えながら、絶妙の采配で私を応援してくれ、以来連続4期、衆議院に送ってくれました。それも常にトップで、その間には、1993年の細川内閣での入閣もあります。96年の知事選挙は残念な結果でしたが、98年に参議院で国政復帰。2004年に一名区となった絶体絶命の参院選では、腰の痛みを押して四六時中事務所に詰め、危機を救ってくれました。これらはすべて、あなたの功績です。

またこの時代は、政党の離合集散があり、思うに任せぬことも数多く経験しました。私は常に、あなたと相談し、私たちは行を共にしました。そして県議のあなたに、私の地元後援会のお世話をお願いしました。江田五月会事務局長です。県議の仕事も多忙ですが、あなたを知る人があなたを放っておくはずがありません。あなたは、98年暮の民主党岡山県連結成の立役者となり、その後も組織作りや候補者調整に全県を走り回り、まさに獅子奮迅の活躍をされました。あなたに足を向けて寝られない首長や議員は、名乗りこそ上げなくても、数え切れないほどなのです。

私はいつも冗談で人に尋ねていました。徹磨さんと私と、どちらが年上でしょうと。実は私が、1歳年長なのですが、あなたは若いころから威風堂々としていました。社会人野球の豪腕投手の風情のまま、堂々たる体躯で誰をも沈黙させる風貌となり、時にはハーレー・ダビッドソンを飛ばして駆けつけ、まさに月光仮面でした。あなたはまさに、現代の英雄であり豪傑でした。

そのあなたが昨秋から、どうも元気がありませんでした。それでもすぐに元のあなたに戻られると、気にも留めていなかったのですが、旧臘、入院。切除胃の診断は難しいと聞きますが、診断がついたときはすでに末期がんで、手術もできないとのこと。耳を疑いました。暮にお会いしたとき、「絶不調だ!」と参った様子でしたが、ご自宅の大好きなあなたが、まさか大晦日と元旦をご自宅で迎えただけで、そのまま幽冥境を異にされるとは、天の無情を恨むばかりです。

今、あなたが精魂を込めて残した民主党は、重大な危機にあります。あなたも私も、若い指導者たちに期待するほかないのですが、私は中央で、ちょっとカバーが足りなかったかなと反省しています。岡山でも、先日の県連大会で、若いリーダーたちにバトンを預けました。彼らにはちょっと邪魔かも知れませんが、しばらくは経験を積んだ熟年世代が、私も含め、バトンの紐を握っておきます。あなたの仕残した仕事は、必ずやり遂げます。どうぞ見守ってください。そして、私もあなたも、家族にはずいぶん迷惑を掛けています。あの世から、しっかりご家族を守ってあげて下さい。

お別れです。さようなら、限りなく心優しきわれらが友、テッツァン!
安らかにお休みください。

2006年3月8日

葬儀委員長、参議院議員、江田五月



2006年3月8日

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