2002年7月1日

戻るホーム2002目次前へ次へ


藤本剛平先生への弔辞


藤本剛平先生

先週の半ば、国会の仕事に追われている私のところに、先生の具合が思わしくないとの連絡が入りました。緊迫した感じで、心配していましたが、それから2、3日でご訃報が届くとは、今でも信じられません。

先生に最後にお目にかかったのは、今年の3月ころでしたか。ご自宅の縁側で、「今年の冬は日ざしが暖かくて過しやすい。」と、寛いでおられましたね。その前は昨年の9月21日。私の父の墓参りの後、鏡野まで上がりました。私が、ハンセン病の関係で犀川先生とお会いしたことを報告すると、懐かしそうに来し方を振り返っておられました。その前は一昨年の暮れ、作州五月会の忘年会に、久し振りに顔を見せて下さいました。劣勢の参議院、石田選挙を、大変心配して、応援して下さいました。

私が最初に剛平先生にお目にかかったのは、32年程前のことです。私が英国のオックスフォード大学に留学しているとき、先生が、たぶん県議会の視察だったのではないでしょうか、尋ねて来て下さいました。県政界の革新若手のホープとして、私もお名前は存じ上げていましたが、現れた先生は、いかにも剛毅朴訥。大学町をあちこち案内しました。

こうして、思い出を手繰ると、きりがありません。

先生は、ご尊父の後を引き受け、芳野病院を、県北の医療、介護の中心のひとつに育て上げられました。その手腕も、もち論忘れることは出来ませんが、先生の人を愛する情熱は、医療の世界だけに収まるには、あまりに大きすぎました。先生は、新しい政治への夢をたぎらせて、政界へ進出されたのです。

先生が県議会選挙に初めて当選されたのは、昭和34年。再選挙という、話には聞いていても、実際には経験したこともない、大激戦でした。その後、一期空けて通算4回当選。私の父が社会党の中で新しいうねりを起こしていたとき、県北でこれを支える中心を担ってくれていました。同時に先生は、党派を越えた信頼を得、副議長まで務められました。

私が、父の後を受けて政治の世界に飛び出し、右も左も分らずうろうろしているとき、いつも先生を頼りました。昭和58年、衆議院選挙に挑戦したとき、県北では先生のアドバイスなしに選挙を考えることは出来ませんでした。さらに先生は、県病院協会の重鎮として、県下の医療関係者にも私のことを推薦してくれました。すべてこれは、先生の、人を愛し、人間の社会を、何とかしてもっと人間らしいものに、作り変えたいという思いから出たことと思います。残念なのは、いまだに私たちが、先生の思いに充分応えきれていないことです。

私の手元に、先生から頂いた2冊があります。昭和61年の「天外天」も平成4年の「独行道(ひとりゆくみち)」も、共に先生の思いのこもった装丁で、手にするとそれだけで先生の温もりが伝わってきます。中を開くと、研ぎ澄まされた17文字に託された先生の感性が、目に飛び込んできます。

昭和58年の句に、「一本の 病指切断 して涼し」というのがあります。その年、先生は、右の薬指を切断されたのです。「薬指なんて、何の役に立っているか、考えたこともなかったけれど、こうして無くなってみると、やはり何かと不便なものでね。顔を洗おうと水をすくうと、水が漏れるんだよ。」と言い、「あっはっは!」と笑っておられました。そこから何かを感じろと言うのでしょう、それ以上の説明はありませんでした。

病状が回復され、お年寄りの皆さんを相手に俳句教室を再開されたとき、伺ったことがありましたね。なんとものんびりした時間でしたが、何かの選挙の直前で気がせいていた私は、ゆっくり句会を楽しむゆとりがなく、今でも申し訳なく残念に思っています。

先生の趣味は、もう一つあります。それは筆です。ゆったりと筆を運び、自在に奔放に、絵や書をものにされます。作品は、趣味の域を越え、見る者をホッとさせます。先生の制作の場所は、広いテーブルを最も書きやすい高さにしつらえ、その上に毛氈を敷いたアトリエです。私もそこで書かせていただいたことがあります。先生の見ておられる前で書くというのに、先生のかもし出す雰囲気は、一切の緊張を取り払ってしまうのでした。

今こうして思い出して見ると、私にとって剛平先生は、政治のことでも生き方のことでも、心の中で大きな支えになっていることに気が付きます。21世紀に入り、これまでの政治が行き詰まっているのに、私たちにも新しい方向が必ずしも見えていません。このような時、先生を失い、呆然と立ちすくんでいます。

しかし剛平先生。先生はそんなことを許してはくれませんね。先生がされていたように、私たちも、人と自然を愛し、ゆったりとした歴史の流れを信じ、ひたむきに勇気をもって、新しい夢に向かって歩みを進めます。

病院は、宗平先生を中心に、地域の皆さんの絶大な信頼を集め、頑張っています。奥様も東母子さんも元気です。剛平先生、あの世で私たちのことを忘れ、短冊片手に筆を握るもよし、私の父をはじめ先に行って待っているものと、酒を酌み交わすのもよし。だけど時には、私たちに何かアドバイスがあれば、こっそり夢に出てきてくださいね。それまで、ゆっくりお休み下さい。さようなら、剛平先生。

平成14年7月1日

              参議院議員  江田五月


2002/07/01

戻るホーム2002目次前へ次へ