2001年9月20日

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高校生インタビュー 少年法について
出席者
参議院議員・江田五月
法政二高・高木暁人、渡邊英、長谷川直樹、白崎正貴、市来大佑

高木:まずは少年法をなぜ改正したのか、その理由について教えて下さい。

江田:じつは僕は、少年法には、裁判官としてかかわっていたことがあるんですよ。六八年に裁判官になって、七二年から七五年まで、千葉家庭裁判所で、少年審判を担当してましてね。少年法は、戦後のいろんな立法のなかでも、特に理想を高く掲げた法律です。家庭裁判所も、単に事実に法律を適用して結果を出すだけでなく、社会の中にしっかりと根を張り、法律学だけではなく、教育学や社会学や医学など、あらゆる学問や手法を駆使して、少年が道に迷ったときに、ちゃんと元に戻れるようにしていこうという理念を持っています。

僕は、改正にはどちらかというと反対の立場だったのです。だから、改正理由の解説者としては不適任ですが、あえて改正の論拠を紹介すれば、少年法の理想が社会からずいぶん誤解されちゃったんですよ。少年のうちは悪いことしていい、十六歳未満だったら刑罰を科せられないから、悪いことをするのは今のうちだというように、少年が勝手放題やり出した、と世間は思ってしまった。いまの子どもは十八、十九はもう大人と変わりはない、大学生なんか酒も飲むしタバコも吸うのに、何故あいつらを少年と呼んで保護しなければならないのかという疑問が広がってしまった。少年の凶悪事件が続いたこともあって、「少年自身が、悪いことをしても少年法で守られていると、思っている。」という声に対して、僕らが「そんなことはない。」と言っても、なかなか分かってもらえない状況になった。「少年法は正しい。」という確信を、社会が持てなくなってしまった。週刊誌に「少年法改正に反対する国会議員は、選挙で落とせ。」なんていう記事が出てきたりね。法律は、社会の確信を失ったら、無力になるのです。それが少年法を改正せざるを得なかった理由ですね。

それで「どこを変えるか。」という話になって、一つは年齢問題。二十歳未満を少年としているのを、もうちょっと引き下げたらどうかという話がでたが、今回はそれはやらなかった。しかし十六歳未満の者でも人の命を奪ったら、刑罰を科すこともあってもいいんじゃないかという主張が、通ってしまった。それまでは、審判の時に十六歳未満だと、保護処分だけで、刑罰は科されなかったのです。

少年事件が非常に複雑化してきたこともある。集団犯罪を起こしたり、犯行の動機がわからなかったり。これでは、一人の裁判官で判断をするのは無理だから、三人でやれるようにしましょうということになった。さらに検察官が審判廷に入って、ちゃんと証拠調べをした方がいいというふうに、少年審判の手続の改正が行われました。

そこで僕たちが修正を求め、その改正で五年間やってみた上で、その間の経験や実績を踏まえて、五年後にもう一度、これでいいかどうかを見直してみようと、最後にそういう見直し条項を付けたのです。その上で成立させて、今年の四月からの施行ということになりました。

長谷川:少年法というのは、戦後の混乱期、少年がある程度の犯罪を侵すのは仕方がないという風潮があってできた、と本で読んだんですが、でもそれだと法の下の平等に、違反しているんじゃないでしょうか。同じ犯罪を犯しても、少年は少年院に入って更生プログラムを受けて社会復帰できるのに、成人は死刑になる場合もありますよね。

江田:人間というのは、他の動物とものすごく違うよね。馬でも鹿でも、生まれて何分かしたらもう立ち上がって、自力でおっぱい吸って、あっという間に大きくなる。人間は十ヶ月お母さんのお腹のなかにいて、生まれてきたときには、ブヨブヨで首はすわってないし、一人ではなにもできない。それから長い時間をかけて大人になっていくわけですよね。社会を構成するところまで辿り着く間、みんなで大切に育て上げていかなければ、育ち上がらないのが人間なんですよね。

しかも、スウッーと育ち上がるなんてことは普通はない。またスウーッと伸びたらいいかというと、必ずしもそうでもない。なんの問題もなく、すくすくと大人になった者が、一度もつまずかずに出世して、若くして裁判官になる。ところが仕事でちょっと行き詰まってしまって、あげく児童買春に走ってしまうというケースだって、最近ありましたね。若いときに道を踏み外すのは、成長過程にある者の権利みたいなものですよ。だから彼らを、社会人として責任のある人間が道を踏み外したときと同じように扱うのは、ちょっと違うんじゃないですか。成長過程にある者が道を踏み外しても、そこからいろんな教訓を得て、更生できるようにしようと社会は考えたわけですよね。

それは、特に戦後の混乱期に子どもが悪いことするから、その対策のために作ったのではなくて、人類の刑事法の長い歴史のなかから出てきた考え方なのです。

刑罰をなんのために科すのかというと、「応報刑」、つまり自分が犯した罪に応じて報いを受けるという考え方に対して、もう一度立ち直らせて社会に復帰させようという「教育刑」という考え方が強くなってきた。特に少年の場合は、応報より教育でちゃんと立ち直らせていこうという考え方が強く、戦前の日本にもこの考え方に基づく少年法はあったんです。しかし、戦前の日本は、裁判所自体の独立が不十分で、少年審判所は行政機関でした。戦後、三権分立で裁判所が独立し、司法権のなかに家庭裁判所という異色の裁判所を作って、そこに少年審判の機能を与えた。社会には、少年を保護育成していく機能が必要なんです。もちろん、未成年だから人権がないわけではなく、保護育成されるのが未成年の人権なのです。

年齢問題で、もう一つ付け加えると、僕らは二十歳を十八歳に引き下げるなら、同時に選挙権年齢も十八歳にしようと言っています。

渡邊:改正のとき、マスコミや世論に、国会が押されちゃったというのがあるんですか。

江田:あると言ったほうが正直ですね。マスコミが大騒ぎをしなかったら、少年法改正はなかったかもしれない。マスコミ主導ではいけないという思いも、僕らのなかにありました。世間がびっくりするような少年犯罪が起きると、マスコミにワアーッと煽られて、世論が動いてしまう。少年法がどういう法律かを正確に理解している人ばかりが、新聞やテレビに出るわけじゃないから、そこは怖いところがあるよね。ただ、専門バカということもあって、専門家が常に正しいわけでもないけどね。

白崎:「五年を目途に」となっていますが、五年後はどうなっていると予想されますか。

江田:それは難しいですね。五年後に振り返ってみると、例えば合議制で審判した事件というのは、それほどなかったねということになるかもしれない。合議制でやったらこんなに素晴らしい結果が出たということも、あまりなかったともね。事件を単独でやるのと合議でやるのと、同じ事件を両方でやって、比べてみることはできないので、判断は難しいんだけど。結局、十六歳未満の少年に、保護処分ではなく、刑罰を科した事例は、なかったねということになるんじゃないかな。だから、何のための少年法改正だったのかわからないということになるような気もしますね。

世論の圧力に押されて改正したけども、実際に運用に当たっては、少年法の行方を本当に心配している現場の人たちが、いろんな配慮をしたから、実際にはそれほどは少年審判の現場が変わることにはならなかったと。それでも改正により、少年法が少年を甘やかしているという世の中の誤解が解かれるならば、改正も人間の知恵としては必ずしも悪いことではなかったと。そういうことになるかもしれませんね。参議院の法務委員会の視察で名古屋に行ったとき、家庭裁判所にも行ったのですが、施行されてから半年間で、裁定合議事件、つまり三人の裁判官で審判した事件というのは、まだ一件もないということでした。

だけど、別のこともありえますよ。改正を一生懸命主張した人は、実績を作りたいから、裁定合議の実例をいくらか作れと言うかもしれない。そんなことで裁定合議にしちゃいけないんですけどね。

監護措置期間、つまり少年を鑑別所に入れておく期間を、長くしたんですが、これも実際には、法で定めた長い期間を全部使うようなことが定着するとは思いませんね。

渡邊:ある週刊誌編集長が、いまの少年法は、少年に適していないから改正を主張したと言ったんです。少年法が作られたときの少年と、いまの少年では、知識の量とか、教育の水準もずいぶん違ってきているからと。でもそれについて僕は、逆にいまの子どものほうが、不自由もなく育って、ある意味子どもだと思うんですね。常識を知らないというか。いまの少年と五十年前の少年と、どちらが子どもっぽいと思いますか。

江田:子どもっぽいから少年法というわけではなくて、まだ成長過程だからということなんですよね。よく、昔の少年は、せいぜい柿の実を盗むぐらいだったのが、いまは盗みどころか、殺したり犯したり何でもやり放題などと言われているけどね。それはむしろ逆で、昔だってかなりのことはやりました、少年は。今のほうがむしろヤワ、つまり軟弱です。僕が少年審判をやっていた頃には、もうヤワになっていた。昔の審判廷は大変で、少年が興奮して立ち上って、机をひっくり返して大暴れということがよくあったそうです。僕の頃には、そんな根性ある少年はいなくて、「すいません」とすぐ謝る。だから、昔の少年犯罪はかわいいものだけど、いまは凶悪になったというのは、ちょっと違うと思う。

大人にもできないような凶悪犯罪を犯した少年を、子ども扱いするのはとんでもないと言うのは、むしろ逆です。大人ならそんなことしないですよ、損得を計算するから。むしろ少年だから、計算も配慮もなく、自分自身の迷路に入りこんで悩んだ末に、信じられないような凶悪犯罪に至るのです。短慮は少年事件の特徴です。凶悪犯罪だから少年の扱いをすべきでないというのは、ちょっと違うんですよね。

少年法の扱いは、犯罪の重さに応じた処遇をしようということとは違うのです。軽い犯罪でも、その少年の持っている要保護性、つまり保護を必要とする程度が大きければ、少年院に送ります。重い犯罪でも、この子はもうそんなに保護や教育を必要としてないとなると、処分は軽くなります。

例えば、一回の無免許運転でも、その背景を見ると、お父さんとお母さんは毎日けんかで、家庭環境はグチャグチャ、子どもはひねくれて、そのあげく無免許運転、しかもダンプカーだったとしましょう。これは、しっかりした矯正教育を受けさせないといけないので、少年院に送ることもある。

また、殺人にもいろいろあります。未成年の女の子が男と付き合って妊娠し、ところが誰も気がつかずに大きくなってトイレで産み落として、そのまま殺してしまう。そんなのは少年院に入れてもしょうがない。一番傷ついているのは本人なのだから。保護観察でしばらく様子を見る、というようなことができるのが少年法なんです。大人の法律だったら、そんなことできません。無免許運転一回で、刑務所にぶち込めないですよね。 

もちろん少年でも、社会に大きな被害を与えたとなれば、そのことを考えないわけにはいかないですよ。

高木:少年犯罪の被害者の方にお会いしたとき、被害者の方は少年法があったためにさらに苦しい思いをしたとおっしゃていました。被害者に対する立法は、考えられているんですか。

江田:被害者保護というのは必要なことで、少年法だけではなく、刑事法はこれまで被害者のことはあまり考えてなかったという反省が最近強くなっています。少年法の改正のときも、被害者への通知とか、被害者が申し出れればその意見を裁判所が聞くとか、被害者が事件記録を自由に見られるようにすることなどを盛り込みました。一般の刑事事件でも、被害者が、例えば証人として公開の法廷に出てきて、加害者の目の前で証言するということは、なかなかきついことですよね。裁判官の側から言うと、法廷で証言してもらって、その時の被告人の表情の変化を見たほうが、心証がつかみ易いのです。しかし、裁判官の心証のつかみ易さだけで扱いを決めるわけにはいきません。被害者は別室にいて証言し、それを法廷のテレビで見ながら訊問するとか、いろんなことを最近始めました。

1985年に国連の決めた「国連被害者人権宣言」があって、被害者には、被害から回復するための被害者としての権利が認められています。犯罪被害で心がずたずたになっている人に対して、社会がちゃんとサポートする。尋ねて行って悩みを聞いたりする制度も、細々ですがあります。僕たちは、この権利をしっかりした制度にしようと、「犯罪被害者基本法案」を議員立法で提出したのですが、残念ながらまだ成立していません。

被害者にとっては、刑罰でも少年法の保護処分でも、同じことですよ。いずれにしても、それがあまりにも軽すぎて被害者がより傷つくということは、これまでもありました。だけど軽すぎるというのは、どんな基準で判断するのか、難しい話でね。人によっては、一回頬を殴られただけでも、「あいつを殺せ。」と思うかもしれない。それは極端だけれども、あの程度の処分では我慢できない、私の受けた被害や苦しみをどうしてくれるという思いはあるでしょう。それを、刑罰とか保護処分とか、加害者への制裁によって晴らすことがいいのでしょうか。被害者の保護というのは、別の仕組みで考る方が、僕は正しいと思います。

市来:少年法改正には反対だったとおっしゃってましたが、なぜ反対だったんですか。

江田:少年法が掲げる高い理想が大切だからです。「今の少年は悪いことばかりしているから、厳罰に処そう。」という意見には、今でも反対です。少年を厳重に罰すれば、世の中が良くなるってもんじゃないと、今でもそう思います。だけど、別の角度からの政治の責任があります。マスコミが煽ったということもあるけれど、少年法の高い理想に対して、国民が信頼を置かなくなったので、どうやって信頼を回復するかというのも大切です。社会の意見や願いに応えなければいけない。だから、最後は修正をして通しました。

渡邊:少年院は加害者を更生させる目的があるじゃないですか。その更生について、例えば殺人を犯した少年だったら、どのようにすれば、更生したとお考えになりますか。

江田:これは難しいです。例えば、殺人でもいろいろある。子どもを産み落として殺した少女は、たぶんそのことによる心の傷を癒して、これからは無責任な男に欺されることなく、自分でしっかり生きていけるようになることが一番の更生でしょうね。だけど、殺人の背景に、家庭環境の悪さがあったり、本人の性格も歪んでいて、人を殺すのが楽しい、なんていうのを更生させることは、ものすごく難しいですよね。だから、少年刑務所でも少年院でも、更生させることを目的としているんだけど、なかなか難しいんですよ。とくに刑務所は難しい。

少年院の場合には、目的に沿ってきちんと更生プログラムを作り、心理テストや面接をしたり、集団討議をしたりする。十人ぐらいでグループを作って、劇をして、あの場面であの人はどう振る舞えばよかったか、あの場面のあの人の気持ちはどうだったのかなどと、いろいろ議論するんですよ。少年院は、集団や個別の教育などを通じて、更生のための努力を精一杯しているとは思いますが、必ずしも成功するとは限りません。難しいところはあります。

長谷川:少年法というのは、犯罪を犯したあとの教育を目的としていますが、犯罪を犯す前に更生させられるような制度とか、法律は難しいかもしれないけれど、そういうものを作れないでしょうか。

江田:難しいですよね。犯罪を犯す前に、「こいつは犯しそうだから。」といって処分するのは、人権の問題だからね。ただ少年法には「虞犯」というのがあるんですよ。まだ犯罪を犯してないんだけど、犯すような環境にいる。これは犯す虞(おそれ)ということで、家庭裁判所がその少年に審判の権限を持つようになっています。虞犯の定義は、保護者の監督に理由もなく服さないとか、いかがわしい所へ出入りするとか、少年法に書いてあります。更生のために社会が手を差し伸べなければいけないと判断された少年には、あえて犯罪を犯すまで待たなくても、ちゃんと手当てをする。

ただ、裁判所だけが犯罪を抑止する機関ではなくて、学校でも例えば生徒会など、みなさんの日ごろの活動の中で、お互いに助け合い救い合うってことはあるでしょう。そういうことがけっこう大切でね。アメリカでやっているティーンズ・コートっていうのは面白そうです。未成年の人だけで裁判所を作って、非行を犯した人を裁いて、「君は学校の掃除を三ヶ月やりなさい。」とか、「罰としてティーンズ・コートの裁判官を務めなさい。」という判決を出す。そうすると、非行についてのみんなの共通の理解も生まれる。三ヶ月毎日学校の掃除するというのは、結構きついだろうし、それで自分のやったことの償いをした気持ちにもなるでしょう。

市来:先程マスコミの報道に世論が煽られたとおっしゃてましたが、少年法や少年犯罪に対するマスコミの報道についてどう思われますか。

江田:少年犯罪だけでなく、加害者のプライバシーをこと細かく報道することに、なにかプラスがあるんだろうか。逆に被害者のほうも、よくそこまで細かくというくらい書いている例があるでしょう。マスコミは売れればいい。センセーショナルにガンガン書き立てるほうが売れる。買う方の国民にも責任があるのですが、それでいいのでしょうか。

とくに少年の場合、「これだけ凶悪なことをやったのだから、わが社は断固実名で書く。」と、そこまで一つの出版社、あるいは一人の編集長が決めることができるのだろうか。実名を出された子どもは、生涯そのことを背負って生きていかなければならない。誰だって、犯罪を犯したら、そのことを生涯背負っていかなきゃならないんだけど、自分でそのことを背負って生きていくということと、世間がそのことをずっと覚えているというのは、違いますよね。未成年というのは、道を間違うこともあるんだ、道を間違えるのも一つのいい経験で、そこから立ち直ってほしいというのが社会の願いだと思う。実名を出すことによって売れる雑誌社の利益のほかに、実名を知ることによって得られる社会の利益が、何かあるのでしょうか。そこで少年法で、実名報道は止めようということになっているのだから、編集長や出版社の怒りの気持ちだけで決めてもらっては困ると思います。

(高校生の考える少年法 掲載)


2001年9月20日

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