2000年8月31日

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何が法曹に問われているのか

 日弁連などの主催した「司法改革・東京ミーティング」は、3000人の人が殺到した。会場は溢れ、パンフレットも貰えずに帰った人々も多かった。私もパネリストとして招かれ、田原総一朗さんたちもいたが、我々が目当てではない。司法改革というテーマが、人々を惹きつけているのだ。びっくりした。

 今、市民の中に、司法に対する批判や不満が渦巻いている。法律家に相談したいことが山ほどあるのに、弁護士さんはどこにいるの。ちゃんと聞いてくれるの。裁判は、いつ結論が出るの。裁判所では、チンプンカンプン。裁判官はゆっくり話を聞いてくれず、もっと……と言ったら、怒られる。

 戦後改革で、日本は国民主権の国になった。しかし司法だけは取り残された。弾劾裁判制度や国民審査制度が、最後のよりどころだというのだが、気休めみたいだ。市民は、自分たちが主人公のはずなのに、どこかおかしい、理不尽だと思っている。そうでなければ、こんなに多くの市民が、司法改革の話を聞きに来たりしない。今回の司法改革の原点は、ここのところだと、私は思う。

 私は先日、「法曹一元」と「陪参審」を中心にした民主党の司法改革案をまとめた。制度の改革としては、そのようなことが欠かせない。それはそれで精一杯やりたい。しかし同時に忘れてならないのは、司法に携わるものやこれに志すものの心構え、法曹としての生き方のことだ。

 誰でもいさかいは避けたい。しかし社会の多元性を大切にすると、いさかいは避けられない。無理をすると、社会はものすごく窮屈に、人生はものすごく味気なくなる。つらい業のようなものだ。法曹は、これを飯の種にしている。決して威張れた、尊い存在なんかではない。

 しかし、いさかいを超越してご託宣を述べておれば、それなりに尊敬され、いい暮らしができる。しかも法曹だけで閉鎖集団を作り、その中でしか通用しない言語を使って仕事をする。日ごろは情報公開とか説明責任とか言いながら、外部の人が文句を言いに来ると、素人は立入禁止と追い返す。外部からはそう見られていることを、直視しなければならない。

 人間は、人間の中でしか育たない。異質の人々の絡まり合った利害や感情の交錯の中で初めて、人間は磨かれていくのだ。そして、そのようにして育った人が、本当は人や事件を裁く資格を得ていくのだ。

 シンポジウムで田原総一朗さんが、盲点を的確につかれた。「裁判官は市民と交わるべきだというなら、近所の人が個人的な相談に来たらどうするの。」

 司法試験用の答えは簡単。大切なのは、質問者は何を疑問に思っているのかを、その人の立場に立って考えてみる能力、そして法曹としての答えを、その人の言葉で話せる能力、さらにそうした能力を磨くことれが必要だと思う感受性だ。そこのところを間違うと、司法は国民から見捨てられる。今ぎりぎりの所なのだ。

受験新報 No.596(2000/10)掲載


2000年8月31日

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