新しい政治をめざして 目次次「わが鮎の記」

母を語る――無言の教え

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 母は元治元年生れ、父より二つ年上だった。昭和二十四年、八十七歳で、父より六年おくれてなくなった。戸籍面では登瀬となっていたが、琴野が通称で、近所の人たちからは「おこうさん」と呼ばれていた。生家は私の郷里から十キロほど離れた農家だった。どのように成人したのか、父との結婚のいきさつがどうなのか、一度もたずねてみなかったが、和裁の教師免状をもっていたし、読み書きもできたのだから、当時の農村女性としては、教養があった方であろう。

 私は小学生の頃、母の生家の秋祭りに、毎年一緒にでかけた。幼年時代には、母に背負われて行ったと聞かされたが、その記憶はない。私は母が四十をこえてからの末っ子だったので、母は道ゆく人々にお孫さんですかとたずねられて困ったと語っていた。母は小柄で、耳だけがばかに大きかった。生家への十キロの途中には峠があり、大きな石地蔵が祀ってあり、そこで一息つくのが慣例だった。

 母の生家は中農で、家の前の小溝には、しじみ貝がいた。家の人達は、みんなねむそうな顔付だった。私にとって、祭客にゆくことは別段楽しいことではなかった。ことに、夜中におこされて甘酒をのまされることと、帰りに「すし」をつめた重箱をもたされるのがにが手だった。重箱を手にさげたり、頭の上にのせたり、どうにも辛棒できなくなって、竹を通して母と二人でかついだり、峠をこえての十キロは楽でなかった。それでも毎年母のお供をつづけた。

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 私は母が父と争ったのを見たことがない。母から近所の人たちの悪口を聞かされたこともない。父はやっかいな仕事は母におしつけるくせがあったし、一日の仕事が終ると、仲間を集めて花札遊びなどしていたが、母は黙々と働きどおしだった。それでも、母の口から一度も愚痴をきかされたことはなかった。

 私は小学校をおえると、朝鮮京城の姉のところへ渡り、商業学校へ通わせてもらった。母が、孫と間違われた末っ子の私に、深い愛情をもっていたことは疑う余地のないことだが、私が親もとを離れることがよいと思ったのか、いつもの通り父の言うことには、何であろうと従ったのか、私には分らない。私は父にも母にもめったにものをねだらなかったが、たまにねだることがあれは、相手は母だった。母は一度もことわったことはなかった。家で菓子など店売りしていたので、別にへそくりなどしないでも、売上げの金が自由になったのであろう。後年、私が東京商大に学んでいた頃も、母はたどたどしい手紙の中に、五円札を入れておくってくれたことがある。

 私は母に叱られたことは一度もなかった。小学校で遊んで帰りがおそくなっても、後年友人とテニスにでかけ、父に命ぜられた仕事をさぼって小言をくらうときも、母はいつも私をかばってくれた。そうかといって、甘い言葉をかけてくれたこともない。私を私の思うがままに、のびのびと成長させてくれたのである。

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 母は一生を働きとおして終った。家の職業は手打うどんそばの製造だったが、後に、機械うどんが他所から入りこむようになってからは、うどんの売行きがへったため、鉄の型でせんべいを焼くこともはじめた。二反歩ほどの畑もつくっていた。うどん粉をこねたり、のばして大きな包丁で切る仕事は、父でなければできなかったが、他のことだと、父にかわって何でもやりこなしていた。夏のせんべい焼きの仕事は、汗びっしょりになり苦しいことだったが、母は結構やりとげていた。勝気にものごとを処理するというのではないが、黙々と働きとおす、農家育ちの典型的な姿だった。

 和裁は教師免状をもっていたぐらいだから達者だった。近所の人からも、よくたのまれていた。七十をこえてからも、老眼鏡で針をうごかし、眼がしょぼしょぼするようになってからは、竹を細く割ったので眼につかい棒をかましてぬっていた。父がなくなってからは、兄や姉の家でくらしたが、じっと楽隠居していられない性格で、なにか働いていなければ気がすまぬようだった。人間、働ける間は働きぬかねばならないという信条をもっていたのであろうが、とにかくよく働いた。母が昼間横になっていたのは、正月の三日間だけだったようだ。病気らしい病気もしたことはなかった。

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 私は、この母に心配こそかけたが、ついぞ親孝行などしたことがなかった。肋膜をわずらったり、監獄へほうりこまれたり、母をなやましつづけた。

 東京商大の中退で肋膜をやられ、自宅で病床につくと、母は栄養が第一だといって、鶏の内臓や青野菜を食べさせてくれた。小魚を骨ごと食べるとよいといって、家の裏を流れている旭川で小魚をとって料理してくれた。子供の頃、風邪をひくと、母は「風邪は膳の下に入る」といって、私のすきな食べ物をつくって、うんと食べさせた。肋膜に対しても同じ考えであり、別に栄養学を知っていたわけではないが、生活の知恵ともいうべきものを身につけていたのであろう。

 ニンニクがきくといって、おろし金ですったのを、オブラートに包んで食べさせてくれた。胸を通って腹に入ると、背骨がやけつくような感じがした。躊躇すると、母は自分でのみこんでみて、大げさにいうほどのことはない、といって、それ以上私にわがままを言わせなかった。

 当時、田舎で胸をやられると、あやしげな薬売りがやってきたり、親類や近所の人が、神様のお水だとか灰だとかをもってきたものだ。母はこういうものには一顧も与えず、栄養第一の合理主義に徹していた。病気のときを別にしても、野菜は蒸しすぎてはいけないといって、いつでも新鮮に近い形でたべさせてくれた。

 私は肋膜がよくなると、すぐに農民運動にとびこんだ。大学をでる息子につないでいた両親の期待を裏切っただけでなく、間もなく小作争議の指導者として、監獄に入ってしまった。さぞやがっかりしたことと思うが、この私の人生行路に、父も母もなにもいわなかった。一切を息子の自由にまかせきりだった。

 そうかといって無関心なのではない。あとで姉から聞いたところによると、母は在獄中の私の健康を祈願して、氏神様にお百度をふんでいたということである。常日頃無神論に近い母が、お百度をふんだと聞かされたときは、私もぎくっとした。

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 その頃、私は母に、「孝行の小出しはしない、そのうち、飛行機でアメリカにつれてゆく」と冗談をいった。母も笑って「三郎がアメリカを見せてくれるそうだ」と誰彼に語っていた。

 そのうち、私は結婚したが、妻は母の人柄にすっかりうたれたようだったし、母も妻が気にいった様子だった。私達二人は別居して、母との頻繁な往来はなかったが、母は私達の結婚をよろこんでいた。間もなく、私は県会議員に当選した。母は感情を表にあらわさない人なので、大げさに喜びはしなかったが、アメリカ行きはともかく、これで息子も落ちついたと安心してくれたにちがいない。

 しかし、この親孝行も、まことにはかなく終った。支那事変がはじまり、翌年一月には、私は治安維持法違反で捕らわれてしまった。未決を加算すると、三年半獄中生活を送ることになった。私が警察の留置場のタライ廻しから未決監に移されると、母はかすりの着物をぬって差入れてくれた。私は父のことはさほどに思わなかったが、母の差入れの着物には参った。前回の入獄のとき、私にだまってお百度参りをしてくれたことを想いおこすと、涙がでて仕方がなかった。妻にお母さんのところへ時々顔を出してくれとたのんだ。

 監獄から出ると、警察がうるさいので、神戸で葬式屋になり、長男が生まれ、一人前の家を借りてくらした。せめてこのさい母に休養してもらおうと思って、神戸の宅へ遊びに来てもらったが、妻はこのとき、孫を遊ばす母の知恵にすっかり頭を下げていたようだ。子供の育て方を、無言のうちに第一頁から教わったわけだ。母が抱くと孫はすぐ泣きやんだし、母のいた三ヵ月ほどの間に見る見るすこやかに成長したのには、私もおどろいてしまった。

 これもながくつづかなかった。戦争の不利な進行とともに、政府の私達への監視はきびしくなり、フィリッピンに渡って開拓農民になれといってきた。私は命が大事だと思って、つてをたどって単身北京にわたり、あとから妻と長男をよびよせ、また母の心配の種をつくってしまった。

 戦後北支から引きあげた私は、間もなく再び県会議員に当選した。世の中が新しくなり、母を心配させつづけた私が、こんどこそ安定した姿での議員に当選したのだから、母もほっとしてくれたと思う。ところが、またしても永つづきがしなかった。私は一年半ほどで県会議員を辞職し、浪人となり、つづいて衆議院の選挙に立候補して落選してしまった。母は一体どうなることかと思ったであろう。

 その後、昭和二十五年には参議院議員に当選したのだが、その半年前に母はなくなっていた。よくよく母を心配させつづけたものだと思う。

 母は老衰のなかで息を引きとったので、私は臨終に間にあわなかった。戦争中二年間、葬式屋として働いた私は、なれた手付で納官の用意をしたが、私の郷里では死者の頭をそりあげるのが習慣になっており、私はカミソリがうまく使えなかった。姉がうまくそってくれたので、私の手で母のちいさいからだを棺に納めた。

 せめて数年生きていてもらえば、飛行機でのアメリカ行きも夢ではなかったろうに。


(月刊時事、昭和39年2月号)  目次次「わが鮎の記」