新しい政治をめざして 目次次「日米間の新しい友好関係を」

日中間の平和共存を

 「プロレタリア文化大革命」下の中国の激動を眼のまえにして、わたくしは社会主義者として、日本の政治家として、そしてまた一個の人間として、心のなかにひろがる深い痛みとともに、中国の国家と国民が強いられてきた不条理のはなはだしさと、そのことにたいするわたくしたち日本人の責任の重さとを、いまさらに噛みしめるおもいである。

 「文化大革命」をめぐってわが国にもさまざまの臆測があり、議論がある。非難があり讃嘆がある。こうした状況のなかで、わたくしがなによりおそれるのは、紅衛兵登場以来のセンセーショナルなできごとのために、「日中問題」の根本、日本国民にとっての、その本来の意味がいつの間にか見失われる結果になることである。佐藤内閣は、日中友好関係の前進に一貫して背中を向けてきた自分たちの態度を正当づける口実に、中国内部のできごとや、それにたいする国際的反応を抜け目なく利用し、さらにはベトナムにおけるアメリカの政策と行動を支持しつづける上でのかくれみのにもしようとしている。一方、これまで日中関係の正常化をめざしてたたかってきた革新陣営の一角、日本共産党は、中国共産党とのイデオロギー問題における意見の不一致を機に、日中関係打開のための国民運動の戦列から脱落の様子をみせているばかりか、運動にかえって新たな困難を加える傾向すらあらわれる始末である。このようななりゆきを最も歓迎し、手をうってよろこぶのはいったいだれだろうか。わたくしはいまこそ「日中問題」にたいする正しい態度を日本の国民がみきわめて、悔いを将来に残さないようにすることが、過去のいかなるときにもまして大切になっていると信ずるのである。

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 「文化大革命」をもたらした背後の事情について、わたくしは専門の知識をもつものではないし、特別の情報にくわしいわけでもないが、紅衛兵の劇的な登場がつたえられたときにわたくしの頭に浮かんだのは、かつて読んだことのある魯迅のつぎのような言葉だった。

 「中国人の性質として、とかく調和や折衷を好みます。たとえば誰かが、この部屋は暗すぎるから、ここに窓を一つ開けねばならぬ、といっても、きっと人々は許しません。ところがもし誰かが、では屋根をとり壊してしまえ、と主張するならば、彼らはきっと調和をはかって、窓を開けることに賛成するようになります。一そう烈しい主張がなかったら、彼らはいつも平和的な改革を実行しようとはしないのです。……」(岩波書店刊『魯迅選集』第八巻、15〜16頁)

 四十年以前におこなわれたこのような指標が、革命後の中国についてもなにほどかあてはまるところがあるのかどうかわたくしは知らない。しかし、人民公社をめぐる政策の推移一つをとってみても、わたくしたちの眼には試行錯誤の連続とうつる過去一連の振幅の背後には、あるいはそうした「国民性」がいぜんはたらいていたのかもしれない。

 別の文章のなかで魯迅はもう一つ、わたくしの記憶にとどまっていたことをいっている。それは「古い社会と古い勢力にたいする闘争は、堅い決心で、たえず継続し、そして実力をたくわえることに重きを置かなければなりません。古い社会の根底は、もともとがとても固いもので、新しい運動は一そう大きなカをもたないかぎり、それをゆり動かしたりすることはできない。そして古い社会は新しい勢力を妥協させるうまい手をもっているが、しかしそれ自身は決して妥協しないのです」(前掲、166頁)というのである。中国のような数千年の歴史と固有の文化的伝統をもった国に、新しい社会を築き上げるという事業の容易ならぬ試練を、いまから七、八年前にこの文章にふれた当時、つくづく思いやったのである。わたくしがここで魯迅の言葉を思いおこしているのは、こんどの「文化大革命」について、わたくしたちがあれこれと考えるばあいに、それがほかならぬ中国の歴史と社会のなかで生じたできごとであることを忘れてはならないという、当然のことをいっておきたかったからである。つまりわたくしたちは、自分自身の、あるいは自分に都合のよい物差しで他人のことを測って、勝手な判断をくだしてはなるまい、ということである。

 中国を敵視しその「脅威」をあおりたてることに専念してきた人びとは、紅衛兵の出現をヒトラーの親衛隊になぞらえ、他方マルクス・レーニン主義の理論家を自任する人びとは毛沢東に率いられた新スターリン主義の例証をそこにみいだす。わが国では、軍国主義時代の悪夢を思いださせる、という受けとりかたが流行しているようである。

 いずれにしてもわたくしは、現在の事態を中国の新しい国家建設の途上にぶつかった苦悩と矛盾のあらわれとして、長い流れのなかで、かつ中国革命の特殊性に即してとらえるべきだと思うのである。そして中国を中国そのものとして理解しようとする努力が、これまでわたくしたちのあいだにかならずしも十分でなかったことを反省するきっかけとしなければならないと考える。

 他方「日本における社会主義への道」への独自の追求をおろそかにする人びとは、あたかも、こうした紅衛兵運動が、どこの国の社会主義建設においても、一度はくぐりぬけなければならない不可避の過程であるかのように説いているが、これまた自主性、主体性を失った態度というほかない。わたくしは、社会主義建設の過程における人間改造、文化革命の重要なことを知っているが、こんにちの中国におけるように、党とその外郭組織によらないで、むしろそれと対立して紅衛兵を利用し、強行しなければならないというやり方には多くの疑問をもっている。

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 それでは「文化大革命」の名のもとにくりひろげられる事柄は、中国のどのような特殊な条件によってひきおこされたのであろうか。わたくしなりの判断では、各種の報道や情報を総合すると、今何の文化大革命の背後には、中国の社会主義建設過程における国内の政治的、経済的、文化的な諸矛盾があり、対外的問題がこれに加わって文化大革命をいっそうラジカルなものにしているように思われる。

 ここで国内要因について詳細にのべるだけの資料をもちあわせていないが、対外的問題について考えれば、中国の国際的孤立感と危機感の探さが根本的に重要な背景をなしているにちがいないということは、はっきりいえると思う。

 中国の国際的孤立化は北京の指導者が、自己の独善的教義を、他国あるいは他党に押しつけようとした結果自ら招いたところにほかならないという議論がある。わたくしも、最近数年間のできごとに限ってみれば、北京の責任に帰すべき問題がたしかにあったと思う。わたくし自身の体験としては、一九六二年夏の原水爆禁止第八回世界大会において中国代表国がとった態度もその一例である。これについては後でまたふれるが、自己の見解に同調するもの以外はすべてこれ敵、といったかたくなな態度が近年しだいに強くなったのは事実である。しかしそのことは、それ以前の、十数年におよぶアメリカの中国包囲、中国敵視の政策が生みだしたものにほかならないのであって、その逆ではなかったのである。多少でも長期的視野をもって中国をめぐる国際環境の推移を眺めるものにとっては、ことの順逆はあまりにあきらかである。

 ジョンソン大統額は七月十二日、モンロー宣言のアジア版とも解すべき、アジア政策にかんする重要な演説のなかで、アメリカが新聞記者、学者、医者、公衆衛生専門家の中国渡航を許可する措置をとったのに中国はそれをすべて拒否したとのべた。アメリカは平和協力政策をとっているのだが、門をかたくなに閉ざしてアジアの平和に挑戦しているのは中国である、といいたいのである。

 ここでわたくしは、たまたま発表されたアメリカの元外交官の証言を一つだけ引用しておけば足りる。国務省でかつてアジア問題を担当したことのあるケネス・ヤングは『フォーリン・アフェアーズ』今秋号所載の論文で、米中大使級会談の十一年問を評価しながら次のようにいっているそうである。

 「米中会談はかなりはっきりした二つの段階にわけられる。第一段階は一九五五年から五八年の半ばまでで、この間中国はアメリカの台湾撤退を条件としないで、米中外相会談、アメリカの 対中国貿易解禁、新聞記者の交換など“比較的解決しやすい”問題で話合うことを主張したが、アメリカは中国にいる全アメリカ人の釈放と、特に台湾にかんしての武力不行使を話合いの前提条件として、これらの問題の討議を拒否したのである。ついで一九五八年九月の台湾海峡をはさむ危機のあと、米中ともそれまでの立場を逆転させた。……」(朝日新聞、1966/09/17)

 念のために注釈しておくと、台湾にたいする武力不行使を中国に誓約させるということは、中国にとっては、台湾におけるアメリカの軍事的存在を正式に認めよというに等しい。また一九五五年から五七年にかけて中国が一定のアメリカ人記者、編集者に入国査証を出すと提案したとき、ダレスはこれに応じて中国を訪問するものは告訴するとして許可を与えなかったのである。

 ソ連も資本主義列強の武力干渉と敵意ある包国をうけた革命直後の苛烈な一時代をもつが、一九三三年ルーズベルト大統領の登場までソ連政府を承認しようとしなかったアメリカですら、経済や通商上の関係は早くからもっていた。ところが中国にたいしてはどうだったか。その存在の事実すらアメリカは受け入れようとしなかったのである。帝国主義諸国支配下の屈辱の長い歴史をもつ中国が、アメリカの態度に、許すことのできない侮蔑を感じとり、傷つけられた国家的自尊心が、ひたすら実力の強化と影響力の拡大に向かっていった道筋は、公平な観察者ならばだれでも理解できるはずである。

 その後中国は戦争と平和の問題を中心とする理論上ならびに実践上の問題をめぐって、多くの人びとの受け入れることのできない硬直した路線と、偏った世界情勢認識をうちだし、国際的孤立を深めていくことになったのであるが、その第一次的な責任はあくまでもこの巨大な独立国家の誇りを傷つけ、その安全をおびやかしてきた側にある。

 不信を累積するこのような歴史的経過にくわえて、ベトナム戦争の拡大である。中国国境数キロに迫る北爆がおこなわれ、さらには国務省も認める中国領空侵犯が度重なるにいたっては、北京の現在の心理状態を「侵略的傲慢さと自分で作りだした強迫観念とがからみあったもの」ときめつけるラスク国務大官の精神状態のほうがよほど問題である。蒋介石側は大陸反攻の好機到来と、アメリカの世論に向かってしきりにはたらきかけをおこなっているし、その注文に応じてアメリカが台湾に八隻の輸送駆逐艦やジェット機などを売り渡している帝笑も報道されている。それでなくともアメリカには以前から中国にたいする「予防戦争」を主張するグループが存在しているのである。これでも中国の戦争危機感は「自分で作りだした強迫観念」だというのだろうか。

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 これまでわたくしがのべてきたことは、みな既によく知られていることばかりで、いろいろの人によって指摘されてきた。それをあえてくりかえしたのは、いま、わたくしたち日本の国民にとって、この自明の前提から出発してもう一度、中国問題を考え直し、日中問題にとりくみ直すことがほんとうに大切なときであると思うからである。

 軍国主義の日本は十五年間にもわたって大陸に武力侵略をくわえ、中国国民に言語に絶する苦痛と迷惑をかけた。この償いを果すことが戦後の日本のまず第一になさなければならないところであったのに、アメリカに追随した日本はかえって新中国建設の妨害に一役買わされてきた。日本はその意味で、こんにち中国国民が直面している状況に特別の道義的責任を負っている。わたくしたちは中国にたいして、強いられた国際的不条理を解消するために、他のどの国よりも力を尽くさなければならないし、中国の国づくりを誠意をこめて助けていかなければならない。たとえどんなことがあっても、日本は二度とふたたび中国国民と戦火を交えてはならないし、中国をおびやかしたり攻撃したりするくわだてに、かりそめにも手を貸してはならない――これが日中問題にたいする、わたくしたちのそもそも根本の心構えだったはずである。それが時の経過と既成事実の積み重ねのうちに、だんだんと夾雑物が多くなり、保守陣営にあっては「核武装する中国の脅威にどう対抗するか」という問題にいつの間にかすりかえられ、他方革新陣営では、革命と社会主義をめぐるイデオロギー問題が前面に立ちはだかり、これと日中関係正常化という国民的課題とを混同する誤った態度が目立ってきたのである。「文化大革命」をめぐる甲論乙駁のなかで、日中問題におけるこのような迷路がいよいよ深くなっていくことを、わたくしは心から憂える。

 日中問題とは、日本および日本国民にとって、なによりもまず中国七億の国民にたいする道義と条理の問題であり、そして同時に両国民が、永久に共存していくための平和の問題である。それはもともときわめて単純明快な道理であるが、曖昧複雑を脱してこの単純明快に立ち帰ることがいま痛切に要求されているのではないだろうか。十年、二十年、あるいは三十年先の日本と中国、そしてそのときのアジアの姿、世界の姿というものに考えをめぐらすならば、いまこの瞬間に脇道にそれていってしまうことの、いかに致命的であるかが想像できよう。十年先、二十年先をうんぬんするのは実際的でないといわれるかも知れないが、しかし日本が「日中問題」に直面しながらいたずらに時を無為に過すことすでに十七年になるのである。この間わたくしたちは、ヒロシマやナガサキを語るように、そのような痛切なおもいと、平和への誓いをこめて、軍国主義日本が大陸に残した「ヒロシマ」と「ナガサキ」について語りつづけてきただろうか。

 国際権力政治の現実はそうした人道や正義の感情をもちこむにはあまりにきびしいのだ、とさかしらに説くいわゆる「現実主義者」がいるならば、その人にわたくしは問いたい。世界の普涌の人びとがベトナムでのアメリカのふるまいに、こぞって吐き気をこらえることのできないのばいったいどうしてなのだと。

 結局のところ自国民にたいしてと同様、他国民にたいして人道と正義の感覚を体現することのできない国家や政府は、それがどれほど強大であっても、どれほど富んでいようと、世界に友を得ることはできず、諸国民の尊敬と信頼を得ることはできない。中国国民にたいする態度において、日本はこれと逆のことを実証することができるし、また実証しなければならないのである。国の姿勢においてそうした道義の感覚がみずみずしくよみがえってこそ、わたくしは日本の政治における退廃と衰弱を根底から克服する道もまたひらけていくのだと信ずる。

 今年の四月、社会党の椿繁夫君が、参議院本会議で、日本学術会議が四月二十二日の総会において採択した、ベトナムにおける化学薬品の軍事的利用をすみやかにやめさせるよう努力することを内外の科学者に訴える主旨の決議に注意をよびおこしながら、北爆の恒久停止とならんで、南ベトナムにおける非人道きわまる焦土作戦の即時停止をアメリカ政府に勧告すべきだと思わないか、と質問した際、佐藤首相は「アメリカが使っているのは警察で使っているのと同様のもので、しかもこれが限定的に使用されておる、こういう現状におきましては、私は、この点をとくに非人道的だと、こういうことで非難することはあたらないように思います」と答えている。こういう感覚、こういう神経の政治家には、日中問題の根本を理解することはとうてい期待できない。

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 わたくしたちは、戦争と平和の問題を中心とする最近の中国共産党の主張や、他の共産党ないし社会主義政党にたいする態度には、多くの正しくない点も含まれていると考えてきたし、また毛沢東の神格化や、紅衛兵のふるまいなどにあらわされる最近の傾向が、他の国々の労働者階級の運動や平和のためのたたかいにとって、決して有益な影響をあたえるものでないことを懸念する。

 前にもふれたが、わたくしが社会党書記長であった当時、原水禁大会に来日した中国代表団は、原水禁運動の基本目標を全面完全軍縮に求めるのは誤りで、民族解放闘争との結合が最重要事であるとし、また「あらゆる国の核実験に反対」というのは間違いであるとの立場から、わたくしたちのあいだに基本路線と大会運営をめぐって対立をきたした。そして離日声明において「江田三郎をかしらとする日本社会党と、総評のわずかな一部の指導幹部が終始大会をあやつろうとした」うんぬんの公然たる非難をわたくしたちに加えた。このことについてのわたくしの考えは、社会党機関紙『社会新報』(1962/9/9)に発表した論文において明らかにしたが、要するにその主旨は、イデオロギー問題での相互の意見のくい違いはいくらでも話し合うことができるし、またそうすべきで、一方の意見を他方に押しつけようとし、それが通らないと相手を威丈高にののしるというのでは、自主対等の間柄は成り立たないということ、またイデオロギー問題をめぐる意見の不一致は、われわれが日中関係の正常化、両国民の新しい友好国係の樹立のために、ひきつづきたたかいの先頭に立つのをなんら妨げるものでないということにあった。

 わたくしは今でもこのように考えているが、当時わたくしがいちはん残念に思ったのは、中国代表団のわたくしたちにたいする非難の尻馬に乗って、日本共産党が、社会党や総評は、中国代表団にたいして非礼の限りをつくしたと一方的な宜伝をおこない、革新陣営や平和運動内部の溝をことさらにひろげるような所業に出たことである。わたくしは日本の革新勢力が、お互いに信頼と敬意を持した、ほんとうに自主平等の関係を中国の友人たちとのあいだに実現するためには、中国側もさることながら、むしろ日本側のほうに反省すべきこと、物事のけじめを正すべきことが多々あるのではないかという感じをもっている。日本共産党が北京への無批判の追随から脱する方針だとつたえられるのは、それ自体悪いことではないが、しかしこんどは日中友好の大衆運動や、貿易交流のなかに政治方針転換の余波をもちこみ、現にいろいろの好ましくない事例を生じているということは、相変らず日中問題の根本とイデオロギー上の党対党の問題とを混同する誤りから、日本共産党が抜けきっていないことを示している。

 日中両国の勤労者階級の連帯とは、一方が他方の権威を便宜主義的に利用したり、他方の思想や運動をそれぞれの歴史や国情のちがいも考えずに輸入してきたりする関係であってはならない。それはなによりもまず日中の勤労者が、それぞれ自国における社会主義のための闘争を独自におし進めながら、その上に立って日中関係の正常化を実現し、両国民の友好をよろこばず、それを阻んでいる内外の干渉をとりのぞき、この地域の平和をおびやかしている勢力のもくろみを失敗させていくという事業の成功をめざすものでなくてはならない。この点では、自民党のなかの、あるいはその影響のもとにある良心的な人びととも、日中の友好とアジアの平和を願う、まじめな人びととも、わたくしたちはいっしょになって努力することができると信じている。 


(世界、1966年11月号) 目次次「日米間の新しい友好関係を」