河田英正の主張

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2000/10/31 誤解   河田直子

ハンセン病の方たちの歴史、特に日本のそれをぜひ学んでください。
それこそ、その気になれば長島や、国内各地にある療養所に行ってじかに入所者の方々のお話を聞けばよいのです。彼らは決してお金目当てではない、虐げられた人権の回復、人間の回復を求めているのです。

長島に大橋がかけられたのが、わずか13年前です。
それまでの何十年か、島に閉じこめられた人たちは、泳いで島から逃げようとして、何人もの人が命を落としたそうです。なぜ彼らが、特効薬が発見され、遺伝でも、結核よりも感染力が少ないにもかかわらず、隔離され続けたのか……。それがらい予防法でした。

長島の人たちのごくわずかの人としか交流がありませんので、偉そうなことは申し上げられませんが、ほんとにその気になれば、ハンセン病をめぐる我が国の国策がどうであったか、それによって隔離された人たちの人権がどのようであったか、正確に学ぶことができますから、ぜひ学んで下さい。

直にお聞きになるなら、早いほうが良いです。なぜなら、彼らは一様に年老い、もはや平均年齢70才を越えているからです。

ちなみに、私の長島の友人たちは今回の訴訟には同意していません。そのように国を相手に争うことが、自分たちの人権回復とは考えていないからです。

友人に会いに行くたび、私自身が励まされます。どのような人生を送ってきたか、想像に余りあるのに、友人たちはみな、とても明るく、神様を証しして生きているからです。

また働くということは、本当に困難な人たちです。
神経が麻痺してしまうハンセン病は、皮膚感覚もやられてしまい、よくあることが、感覚がないので過って熱湯で顔や手を洗ってしまい、やけどをおってしまう、抵抗力も落ちている病気のため、治りにくく、痛みも感じなかったりするので、化膿したままに放置している間に皮膚や、骨までも浸食されて、くずれていってしまう、というパターンだそうです。

現在は特効薬(プロミン)が発見され、発病してもすぐに完治する予後の良い病気になっていますが、長島に隔離された人たちの時代は、その薬が使われず、皮膚が崩れたり、顔の骨が浸食されて形相が変わったり、という見た目が非常に醜くなってしまう後遺症のために、なおさら虐げられてきたという歴史があります。

完治した今もなお、まだ差別が残っています。
実名で生きることさえ、できなかったのです。

感染力も非常に弱いというのに、恐れられました。島から出て働くことができたら、働きたかったと思います。自分の手で働き、結婚し、子どもを作り、というごく普通の私たちの生活が禁じられていたのです。

理解してあげてください。
フランクルは、「夜と霧」の中で、「知らないということは罪だ」といったことを書いていたと思います。ユダヤ人の虐殺からもなんとか逃れようとした人たちは大勢いたことでしょう。しかしそれがどんなに困難なことであったか。

同様に、戦前、戦中、戦後まもなくの日本人は国外逃亡などということを、簡単にできたでしょうか。

理解してあげてください。
歴史をただしく知ってください。同じ私たち人間なのですから。

あまり詳しくないのに、ほんとうに偉そうに申し上げてすみません。
このHPには、江田さんはじめもっと詳しいかたがおられることでしょうに……。


ハンセン病について   江田五月

河田直子さんのハンセン病についての書き込み、感動しました。

昭和20年代、私の父・江田三郎は、長島愛生園に行って、与えられた白衣をはね除けて、膝をつき合わせて患者の皆さんと話をしました。私の母は、それより前、女学生の頃、長島を慰問し、短歌に触れたのです。

私も、長島を訪ねたのは、多分中学生ぐらいだったと思います。まだ、断種が行われていた時代です。

人間回復の証としての長島大橋架橋は、私の政治生活で一番誇れる成果だと、密かに自負しています。

大変な境遇に置かれた人に共感する感受性を持って下さい。お願いです。


河田英正の主張

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