1988

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大阪府社会民主連合

代 表 西 風 勲

 早いものであれからもう十年も経ったのか、という想いである。

 江田三郎さんが社会党離党、「新しい政治をめざして」活動を開始するため、大阪の同志達との懇談を目的に大阪に来られたときのことである。

 「西風くん、社会党は私ひとりで離れる。この私の決意と行動がどんな結果を生むかいまのところ定かではない。こんなときに何も私に義理立てして運命を共にする必要はない。見通しが付いたときに合流してくれればそれでいい。無理をするな。犠牲になるのは私ひとりで充分だ」

 「そんなこと言ったって、離党第一の仕事は参議院全国区に立候補することでしょう。大阪に宣伝車の道先案内人さえいないというわけにはいかないでしょう」

 「宣伝車の走り方まで心配するな。運転手が適当に段取りをつけるだろう、問題ない。見通しもつかないことにつき合う必要はない。私の決意と行動を理解してくれればそれでいいんだ」

 江田さんが政治生命とその生涯をかけて、新しい政治、ロマンのある政治をめざしてひとりで旅立とうというわけである。

 当時の大阪の社会党は、いわゆる江田派の牙城であり、大部分の国会議員は江田派に属していた。社会党全国大会の代議員も、二、三人を除けばほとんど全員江田派が選出された。私などよりは遙かに昔から江田さんと交友関係を捨び、深いきずながあると思われた人も、最高幹部や国会議人員のなかにかなり存在していた。だから私は、その誰かの指示のもとに動けばよいものだと思っていたが、いよいよ江田さんが立ち上がることになったら、そうした人達は、誰一人行動を共にするとは言わなかった。時期と方法が悪いという批判を繰り返すだけだった。

 私も随分なやんだ。私が自覚していた以上に、社会党は私のからだのなかで血肉化していた。人生のすべてを社会党に捧げようと三十年余り頑張って来た私の半生の歴史と訣別するわけである。

 その上、新党づくりを前に、江田三郎の急死という私の人生最大のかなしみに遭遇した。出発をまえにして大打撃をうけるという、冷たい現実からスタートしなければならなかったのである。それでも今西良一、川島慶造の両君をはじめとするたくさんの捨て身の同志達が、江田三郎の大理想のために頑張ろうということになったので勇気百倍、東に西に行動を開始した。

 そして大阪社会市民連合は一九七八年春に結成され、その発展として七九年三月三日、大阪社会民主連合が正式に結成された。

 既成の組織や特定団体の利益を代表しない、自由な市民の政党を旗じるしに活動をはじめたが、なかなかスローガン通りには行かず、既成の組織は予想以上にかたく、政治的に自覚した市民の数も、必ずしも多いとは言えなかった。組織づくりも資金づくりも並大抵のことではなかった。自己犠牲と手造りという方法しか残っていなかった。

 しかし、江田三郎の遺した理想と政治のロマンを実現するためには、歯をくいしばってやるしかなかった。知事・市長選挙をはじめ、いくつかの地方選挙にも積極的にとりくんだ。全然相手にされない時期もあったが、われわれの地道な努力で、大阪の政治の上に、今日一定の地歩をきずくことが出来たと確信している。

 最近の新しい例で言えば、八七年十一月に行われた大阪市長選挙で西尾正也市長候補を推せんし、別掲の写真でもわかっていただける様に、かなり多くの大衆を集める力量をもつ組織として、西尾市長実現の上で大きい投割を果たすことが出来たことは明らかである。

 たしかに大阪社民連所属の議員は少ない。しかし、われわれは、そんなことに余りこだわってこなかった。大きな政治のうねりのなかで、役に立つ人なら、市民政治の前進のために努力してくれる人ならという考えで、社民連所属にこだわらず、広く、多くの人々を各都市の市長・議員などに積極的に推し、その当選のため頑張って来た。従って社民連所属は少なくとも、江田さんが高くかかげたわれわれの理想、政界再編成、新しい日本の政治体制づくりのためには大いに力をそえてくれるたくさんの議員を大阪でつくることが出来た、と自負している。

 江田三郎が目指した政治路線は、没後十年ようやく陽の目を見はじめた。あの当時自らも江田三郎の思想に共感していながら、組合や、いわゆる協会派活動家といわれる人達を恐れ、自分の選挙の有利・不利だけしか眼中になかった人々も、全民労連結成などを契機に、江田三郎が十数年も前に主張したことを、今になってやっと積極的に認める発言をするようになった。

 社民連結成十年、社会・民社の歴史的和解を唱えたわれわれを鼻で笑っていた人々も、われわれの主張の正当性、現実性を認めざるを得ない政治情勢が生まれている。残念ながら、われわれは現在、政界再編成の指導権を握る力量を備えてはいないかもしれない。だが、これからもその先駆性を発揮して、世の中の市民の動きや主張をいち早く敏感にとり上げ、情勢をきりひらくパイオニアに徹するならば、今まで以上に大きい政治的役割を果たして行くことは必ず出来る。

 残念ながら、社民連というかたちでは自ら大きな政治勢力として完結出来ないかも知れないが、江田三郎の遺した歴史的役割は、ますます評価され、輝くであろう。そのことでわれわれは、もって瞑すればよいと思う。

 野党の再編成への道は、まだまだジグザグのコースはまぬかれないが、しかし近い将来、再編され統合し、新しい材民的政治勢力やあらゆる政治潮流が合流して、政権担当能力のある新党として昇華することは、いまや動かし難い歴史の流れである。


1987年11月10日、大阪市長選・西尾正也候補をはげます夕べ会場。


1988

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