1977

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社会クラブ結成

 七夕選挙が終わると、社会党内は再び混乱した。

 参議院における与野党の議席差は三年前同様伯仲したものの、逆転は果たせなかった。社会党が二十七議席しかとれず、前回の三十一議席を更に下回ったためである。

 参議院選後初めて開かれた中執委で、成田委員長は「敗北の責任をとって辞めたい」と辞意を表明。石橋書記長も連帯責任をとると言い出した。すると、社会主義協会は「参院選は敗北ではない」と執行部を援護した。協会はすでに石橋を次期委員長と決めていたから、連帯責任をとって辞められたらシナリオが崩れるのだ。

 しかし、委員長・書記長の首のすげかえだけでは党改革につながらないことも、社会主義協会のいうのとは逆の意味で事実ではあった。社会主義協会というマルクス・レーニン主義の教条主義集団を党内に抱えている限り、党改革は絶望的であった。このことは国民にも広く知られ始めていた。その証拠は、参院選と同時に行われた都議選である。社会党の都議候補の中で、社会主義協会系の人は全員落選した。有権者ははっきりと、硬直した考え方を拒否したのであった。

 中央執行委員会は、「今年こそ党再生論争を」という反協会系と「論争不要」という協会系に二分された。やがて社会党内には、党再生論争の舞台となる党改革委員会が設置されたが、メンバーは中執委全員なのである。何のことはない、中執委の論争がそっくり持ち込まれたにすぎない。

 それでもここでの論争は直ちに党全体に波及したので、ようやくここへ来て反協会派は党改革推進グループを結成する。同グループの中では、田英夫国際局長の動きが目覚しかった。ジャーナリスト出身の広い視野から、狭い枠に閉じこもる社会主義協会をズバリ、ズバリと批判した。

 「社会党のガン・社会主義協会を切除せねばならない」と言い出したのも、田だ。社会主義協会は社会党のガン、ということは、改革推進グループ内では常識になっていたが、皆は「毒が全身に回らぬうちにコバルト照射を」と言っていた。つまり、「純粋な理論集団に戻ればよし」としていたのである。

 しかし、田をはじめ楢崎弥之助・秦豊らは、「社会主義協会は、中央常任委員会を持ち、綱領と規約を持つ独立した政党である。それが社会党という別の政党に寄生して党中党になっているのだ。早く切除して、本来の党外党に戻さなければならない」と言い出したのである。

 推進グループのメンバーは、ほとんどが国会議員。従って協会アレルギーは強く、田の発言には共鳴する者が多かった。「協会と訣別」「共に天を戴かず」という勇ましい掛声がとび交い、あたかも国会議員の間だけでは党改革が成るかのような雰囲気になっていった。

 ところが、党大会が近づくにつれて国会議員たちの動きが鈍って来た。特に総評が「社会党の分裂を避けるために」とのり出して来ると、にわかに妥協案がさまざまな形で出て来た。

 槙枝総評議長は社会主義協会の向坂代表と会って、協会の完全理論集団化への自主改革を申し入れた。その結果出て来たのが「確認合意文書」と称するものなのだが、表面的な変更だけで協会の実体は温存されたままの見せかけの改革であった。楢崎は「実体は秘密結社から極秘結社に移行するだけではないか」と長嘆息した。

 ところが、推進グループの大方のメンバーはこれで納得したのである。総評系の多い国会議員は、中身より槙枝の妥協斡旋の労を高く評価したわけだ。楢崎・田・秦の三人が社会党再生に絶望し始めるのは、この頃からである。

 九月二十六日、社会党第四十一回大会が開かれた。
 大会の議論は党改革問題が中心となるはずだったのに、「槙枝議長の顔を立てよう」 「協会も自主改革したのだから、静観しよう」という微温湯的空気が流れていた。

 社会主義協会は勝ち誇り、旧態依然の原則論をぶち上げていたが、国会議員の関心はすでに党役員人事に移っていたのである。



離党前夜・当日のドキュメント(楢崎弥之助)

 一九七七年九月二十六日、第四十一回社会党全国大会当日の夜開かれた改革推進(反協会)グループ幹部会に、私は安井吉典党副委員長とともに 「新しい流れの会」を代表して出席した。

 メンバーは私たちの他に、下平正一、曽我祐二(佐々木派)、山本幸一、中沢茂一、野々山一三(革新研−旧江田派)、八百板正、石野久男(安打同)、佐藤観樹(勝間田派掘昌雄系)などの諸氏である。

 議題は人事問題が主であった。客観情勢は飛鳥田横浜市長を委員長にもってくる案を中心に動いていた。まずその動きにどう対応するかで紛糾する。

 「流れの会」としては、飛鳥田市長を委員長にするための解明すべき前提条件を幹部会に提出したのであるが、それは一顧だにされず、いきなり飛鳥田委員長構想をつぶすために私が委員長候補として闘えという意見が出された。

 もちろん、私は即座に断った。「流れの会」では飛鳥田委員長構想をめぐって賛否激論があり、そのために前提条件の解明をまず行うということでやっと会をまとめてきたばかりである。それを棚上げして私をなぜ飛鳥田氏と闘わせねばならないのか。勝負は問題ではない。先輩連中が数おられるのに、なぜその先輩たちが闘おうとしないのか。

 そのとき私は各派閥領袖の狡さを直感した。毛沢東語録の「重い荷物は人に背負わせ、軽い荷物だけ持とうとする。それは悪いことです」という戒めを目の当りにみた想いであった。

 今度は私の委員長出馬問題でまた紛糾する。佐々木派は下平書記長であれば飛鳥田委員長で構わぬというし、掘系は別の意味で飛鳥田委員長やむなしという。私はつくづくいやになった。

 「私のことが議論になっているので本人は退座した方がいいと思います」と言い残して私は「流れの会」の同志が控えている九段のグランドパレスホテルの部屋に引き上げた。

 その部屋には竹田四郎、田英夫、大出俊、上田哲、土井たか子、久保亘、片山甚市などの衆参議員が屯していた。私は経過を報告し、久保氏に私の代わりとして反協会幹部会に行ってもらうこととした。

 「流れの会」の部屋では大出・上田両君が飛鳥田委員長絶対阻止の大演説をぶつ。アルコールの入った演説は意気軒昂、論旨明快、まことにさわやかであった。

 特に竹田・大出の両氏は神奈川県出身である。もし飛鳥田氏が委員長にまわればまずバッジが必要になる。衆議院ならば神奈川一区か二区。つまり大出君と競合する。大出君を横浜市長候補に回し、そのあとを飛鳥田氏がやることになるかもしれない。また参議院ならば、かつて飛鳥田氏の秘書をした経験のある竹田氏に語め腹を切らせてそのあとをという可能性もある。飛鳥田委員長構想はそのまま「流れの会」の同志の身分を脅かすという主張である。

 結論は、「流れの会」幹事長の私が同志の身分を救うためにも委員長に立候補せよということのように聞こえた(私が委員長に立候補すれば、無競争・万場一致推せんを条件とする飛鳥田氏は立候補をやめるという読みである)。

 議員たるもの、己れの身分にかかわる問題であれば自己中心になることは当然である。そうと分かりながらも私は淋しく空しいものを感じた。

 これは大変なことになる。私の直感である。夜も十二時を過ぎていたが、すでに自宅に帰っている秦参議院議員をよびもどし、部屋にいない横路孝弘代議士を探し出し、みんなでこの事態打開の論議をつめて「流れの会」としての結論を出してもらうように頼み、私はその結論に従うことを告げて別室に行き仮眠をとった。

 夜を徹しての議論の末、飛鳥田委員長構想はつぶすこと、他の派閥が色々の思惑で狡く立ち回り、委員長候補を出しえないのなら、「流れの会」があえて火中の栗を拾い、私をその候補として闘う用意ありとの結論に達したことを、翌二十七日早朝に聞かされた。

 私はある予感をもってこっそりホテルを抜け出し、衆議院会館の私の部屋に帰った。独り静かに考えたかったからである。人気のない会館はひっそりと静まりかえっていた。ところが、テレビ・ラジオ報道では反協会グループが人事でまとまらず、ポスト争奪が繰り返され、私のことについて書記長だ、やれ国対委員長だと球の投げ合いが行われていることを告げていた。

 かねて恐れていた反協会グループの一番の恥部が暴き出されたのである。反協会側にとっては党改革のための結束が今こそ必要なこの時点で、たかが人事のために党改革を棚上げしてでも協会側と妥協しかねない醜いポスト争いをするこの抜き難い反協会グループの体質的病弊、虚構の派閥構図をみては、もはやこれまで、懸案の党改革など、これからの党の姿はみえないと判断するにいたった。

 私は決意した。受話器をとり、ホテルに待機している秦議員に電話し、すぐ田さんと一緒に私の部屋に来てくれるよう頼んだ。三人そろったところで、私は次のようなメモを二人に示した。

「決意するにあたって」メモ

  1. 建て前はとにかく、本音では党改革の展望も可能性もないことがはっきりしながら、それでもなおそのような党にとどまることは、ただバッジ欲しさの故にとどまる結果になり、自ら党に寄生する小判鮫に堕落すること意味する。

  2. 自らの信念、自らの言動に政治家は責任をとり、忠実であらねばならない。いたずらに憤死、爆死することを自ら否定し、自戒し続けた私であったが、政治家の責任として時にそうと知りつつあえて憤死、爆死する道を選ぶこともまたやむをえない場合がある。

  3. 離党という行為が真の党改革=連合時代のカナメ党たるにふさわしい党への再生、脱皮=への決断のはずみになるならば、もって瞑すべきである。立党時の日本社会党の旗をしっかりと胸に抱きしめつつ、静かに自ら信ずる道をえらぶ決意である。

 三人の意志を確かめ合うのに時間はいらなかった。正午を少しまわった頃である。

 人事で苦労している仲間の「流れの会」幹部だけには事前に知らせておかねばと、秦さんに大会揚へ走ってもらった。私たちは部屋で待機した。

 上田の哲ちゃんは秦さんの手を握りしめて、よくぞ決心したと感激し、久保ちゃんは「やっぱりそうか」と絶句したという。安井さんと片山さんは見つからなかった旨の報告をうける。

 久保ちゃんから追いかけるように電話がはいった。四時頃である。
 「あんたの書記長で大体話がまとまった。こういっても、もうだめだろうな」
 「申し訳ない。かんべんしてくれ」
 「分かった。そうだろうな」
 短い応答だった。簡単なやりとりに、かえって私は久保ちゃんの厚い友情を汲みとった。

 三人そろって大会場にむかう。矢は弦を離れたのである。後にはそう引き返せない。悲痛な感情の起伏に心が揺れる。

 ごったがえす大会場の中で安井・片山の両氏をやっと見つけ、そっと決心を告げる。安井さんは驚いて、
 「おい、ちょっと待ってくれ」
 「いや、もう決心は変わりません」

 ふりきるように三階の執行部控室に急ぐ。成田委員長と石橋書記長が弁当をつついていた。
 「大変長い間お世話になりましたが、ただ今、党にお別れすることにいたしました」
 言葉少なに報告の形できり出した。
 「まぁちょっと待ってくれ給え」
 一瞬、成田委員長の唇がふるえた。

 長居は事態を混乱させると早々に執行部控室を出ようとしたとき、槙枝総評議長、竪山中立労連委員長らとすれ違う。記者会見をするためエレベーターヘむかい、乗りこもうとした瞬間、槙枝議長が駆け寄ってきて私の腕をつかまえた。田・秦両氏と私は引き離され、エレベーターは二人を乗せて閉まる。

 私だけが槙枝議長らに抱えられるように労組幹部控室につれこまれた(後日聞いたところでは、竪山委員長が槙枝議長にあの三人をすぐ引きもどしてくれとたのみ、槙枝議長が走り出したという)。すでに竪山委員長、富塚総評事務局長も待ち構えていて、三氏から代わるがわる懇々と慰留の説明が行われる。私の隣の椅子に座っていた富塚事務局長は、
 「楢崎さん、あなたを書記長にすることで話はまとまったんです。自重してくれませんか」
 私の膝をなでて真剣な眼差しでのぞきこむ。
 「もう駄目です。ご配慮はありがたいんですが、私の人事が問題じゃないんです。こんな状態ではとても党改革など思いも及ばないではありませんか。こうすることによって少しでも党にインパクトを与え、目覚めてもらうしかありません」
 私も必死で訴えた。

 「そんなことでショック療法がきくような党じゃないではありませんか。あなた方の方がよくご存知でしょう。考え直して下さい」
 蒼白な顔をして槙枝・竪山両氏も必死で慰留を繰り返された。

 上階で待ち焦れているであろう田・秦両氏のことを思い、私はみなさんの手をふりきるようにして部屋から逃れ出た。

 会見場では私の心は沈み、アイモのきしむ音を聞きながら三十二年間のつむじ風のように吹きぬけていった希望と挫折の映像が、今となってはもはや虚像でしかなかった過ぎし日の栄光に充ちた闘いの数々が、一瞬、足早に私の脳裏をよぎって言葉がつまった。

 かくしてその夜、三十二年間の社会党に哀惜の情を残しつつ訣別したのである。ときに一九七七年九月二十七日午後六時三〇分であった。

 私たちはその夜、赤坂プリンスホテルに部屋をとり、それぞれ十時に集まることを約して別々の行動をとった。

 赤坂プリンスホテルにむかうタクシーの窓から、折りしも澄んだ中秋の名月の青白い光がシートに流れていた。運転手さんが、
 「いい月ですね」
 ポツンと一言だけ言葉をはさんだ。おそらくカーラジオで私たちのことを知っていたのであろうか。言葉少ないその一言が余計にジーンと胸にこたえた。
 「本当にいい月だ」
 私も感慨をこめて静かに月にむかっていった。

 ホテルの部屋から福岡の自宅にやっと電話をいれたのは十二時を過ぎていただろう。自宅には地元のテレビカメラがもちこまれ、真相が分からずに家族一同大いに戸惑ったらしい。

 夜中の一時を過ぎた頃、突然党本部書記の相沢進一君が涙を流しながらホテルの部屋にかけこんできた。一緒に党を出るという。秦さんと二人で、苦労するのは俺たちだけでいいと説得したが、彼は承知しなかった。結局、私たちについてきたのは相沢君一人だけであった。

 永い永い一日であった。


 この日、江田五月・大柴滋夫・菅直人らは四谷の社市連本部で会議中であった。

 夕方、社会党大会の動きはどうかとテレビを点けると、「田・楢崎・秦、社会党を離党」 のニュースをやっている。

 「おお、ついにやったか」と皆は声を上げた。以後は、テレビを観ながら、社会党内の同志や野党クラブの記者諸君が寄せてくれる情報を皆で分析していた。

 夜十一時頃、突然、新自由クラブの柿沢弘治参議院議員が訪ねてきた。
 「江田さん、おめでとう。新しい時代の幕開けだ」
 柿沢は、大蔵省からとび出して今夏の参院選に新自由クラブ公認で東京地方区に出馬、当選したばかりであった。

 「新しい保守と新しい革新、ヌーベルバーグ同士、協力し合って頑張ろう」
 江田と柿沢は肩を叩き合って乾杯した。

 阿部昭吾は、三議員離党直後、革新研の緊急召集をかけた。にわかなことだったが、二十名余りが九段の若喜旅館に集まった。

 「田・楢崎・秦が踏み切った。われわれもこの際踏み切ろう」と衝動的な発言が一座を圧する。しかし、こういう熱気も、長時間話し合っているうちに、また妙な、もうちょっと見極めようという雰囲気に戻っていった。

 阿部はこの時、このグループも残念ながら社会党を改革しようとする馬力も政治的使命感もないなあ、所詮サロンでしかなかったのだ ― と、一種諦めにも似た気持を持った。

 九月二十八日、田・楢崎・秦は国会記者会館で記者会見をした。記者の質問は「これからどうするのか」の一点に集中した。

 すると楢崎は、「カゴに乗る人、かつぐ人、そのまたワラジをつくる人」という比喩を用いて、田を党首とする新党結成構想を発表した。といっても、具体的なことは何一つ決まっていなかったので、三人は熱海の田の友人のマンションに行き、今後の相談をした。

 この時の中心課題は、社会党からあと誰と誰が離党して出て来るかであり、中立労連や新産別や総評の中の全電通をはじめとする反協会色の強い労働組合との接触をどのように進めていくかであった。

 三人が離党する寸前、新しい流れの会のメンバーの中には、離党決意をほのめかす者が相当数いた。そういう議員の中には、必ずしも江田派とはしっくりいかぬ人もいた。田・楢崎・秦の三人が離党後、直ちに社市連と合流せず、「田新党」を結成したわけはここにあった。社会主義協会に乗っとられた社会党に絶望してはいても、適当な受け皿がなくて出るのをためらっている人のためには、窓口は複数のほうがよかったのである。

 ところが、日が経つにつれて、今すぐにでも離党するような口ぶりだった人たちも後ずさりをしはじめ、社会党内は「十二月の続開大会まで結論を延ばそう」という休戦状態になってしまった。

 それでも三人は新党を「社会クラブ」と名付け、事務所を溜池に設置した。

 十月二十日、社会クラブの三人と社市連の大柴・江田・安東が会談。この席で楢崎は、「社市連と合流することは、社会党からの後続部隊が出にくくなる。しかし、後続部隊が続いてこないことの見きわめがついたら、合流しなければお互いに不利だ」と弁じた。皆の思いも同じであった。

 十月二十九日の社市連結成大会に、田は社会クラブ代表として出席し、エールの交換をした。


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