1977年 社会市民連合結成

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江田三郎社会党離党

 
一九七七年に入ると間もなく江田三郎は、「社会党をどうするかはもちろんだが、日本の政治をどうするかを考えるべきだ」と言って、二月に開かれる社会党大会に向けて、政治家として最後の挑戦を決意した。

 そして、現代社会の変化に対応すべき党づくりと、参院選挙の具体的政権構想の提示を骨子とする意見書を党執行部に提出し、昭和五十二年度運動方針に採り入れるよう申し入れたのである。

 しかし、中執委は「時間的に間に合わぬ」としてこの意見書を運動方針に採り入れようとはせず、大会の場で取り扱うとした。だが、これは意見書無視と同じことであった。すでに社会主義協会は、「大会で江田意見書を潰す」と言明していたからである。

 二月八日、社会党第四十回大会が開かれた。衆参両院の首班指名選挙において福田首相が一票差で選出された直後のこの大会は、「社会党は果たして政権担当能力のある政党に脱皮できるか否か」が注目の的であった。

 しかし、大会論議は、後にこの大会が「江田いびり出し大会」の名で呼ばれるように、江田のつるし上げに終始したのである。

 江田意見書は多数で否決され、趣旨説明さえ許されなかった。同様に意見書を提出した佐々木更三元委員長(この人も落選した)は、一応趣旨説明だけは許されたものの、「裏切り者、黙れ」 「老いぼれ、引っ込め」と、聞くに耐えない罵声が浴びせられた。

 会場を揺るがす野次と怒号、だが江田三郎は毅然として答弁を続けた。
 「一つのテーゼを振り回すだけでは、党はだんだん国民から遊離する」と、諄々と説く姿は、まさに殉教者であった。

 社会主義協会にあらずんば人にあらず、といった大会運営を制止しなかった成田・石橋体制も、江田いびり出しに一役買ったといえるだろう。社会党史の汚点ともいうべき異常な大会であった。



江田意見書 革新・中道連合政権への提言

 福田内閣は衆議院において一票差で生れた。参議院は与野党伯仲である。世界が大転換に直面しているなかで、「日本丸」はどこに進路をとるのか。すでに破産した大企業優先路線をとる保守本流が、これまでの議席上の優位をも失い、その場しのぎの対応をすることで、明日の展望をひらけない。

 この政権は、他党のだきこみに、あらゆる手段をとるであろうが、どの党も、この政権と抱合心中するような愚はさけるだろう。残された唯一のチャンスは参議院選挙であり、財界あげての支援をバックに、なりふりかまわぬ選挙戦を展開するであろう。彼らが勝利すれば、参議院のだきこみに新しい条件が生まれよう。福田政権は、すでに歴史的役割の終わった保守本流に、戦後民主主義に背を向ける党内右派が加わり、情勢次第で、いつ右翼反動政権に移行するかも知れない性格をもっており、われわれは、参議院選挙でこの政権を勝利させてはならず、命脈を断たねばならない。そのための、可能な方策確立が急がれる。

 今次選挙では、中道派が支持されたといわれているが、より正確には、政治の急激な変化による混乱をさけ、漸次的改革を望む人々が、国民の側で多数派を形成しつつあるということであろう。年々ふえつづける支持政党なし層が、四年前には、自民党に痛棒を加えるため共産党に投票したが、今回は新自由クラブに移ったこと、最近の世論調査によると、自らを中産階級だと考えるものが、中の上、中の下を加えたら、国民の九割に達していることもこれを裏づけている。この国民の側で形成されつつある多数派を、政治の場で実現するのがわれわれ政党の役目である。そのため、第一に、先進国型の自由と民主主義に基礎をおき、漸次的改革をめざす社会主義勢力(党と労働組合)が核となり、第二に、革新的ないしリベラルな諸党派、諸勢力、市民、知識人、中間層等を含む進歩的連合を形成することである。われわれはそれを革新中道連合と呼ぶ。より正確には、社会党が中心的な勢力として加わるという意味で革新・中道連合である。もし今回の選挙にあたり、そうしたリベラル保守をも含む革新・中道連合構想が具体的に明示されていたなら、新しい政権誕生の道が一挙にひらかれたかもしれない。野党各党バラバラの抽象的政権構想では、なんの迫力も持ちえなかったのである。

 すでに古い社会主義陣営の階級分析が当たらなくなり、価値観の多様化した今日の社会状況にあっては、単一の党が国民過半数の支持を獲得できる時代はすぎ去り、革新のみならず保守も多党化が必然となり、したがって、政権は多党連合が不可避必然となる。西欧社会ではそれが大勢となっており、日本もこの時代に入ったと考えられる。こうした多党連合は、一つのイデオロギーによる連合ではなく、多様な価値観の共存を認める政党が、自治と参加を基調とする諸団体、個人を加えて結集する柔軟な連合である。連合論についてつけ加えるならば、これまで安易に使われてきた「統一戦線」という用語も刷新する必要があるように思う。統一戦線という語は、前衛政党(共産党)を中心としてその周りに諸勢力を結集するという、同心円型の戦線として歴史的に定形化された概念である。われわれが目ざす連合はそうではなく、実際上何れかの党が要(カナメ)党としての役割を担うにしても、少なくとも理論的には、同格の複数の政党がいて、互いに協力しあう関係でなければならない。したがって「統一戦線」という用語よりも「連合」がその呼び名にふさわしいと思う。わたくしはいま、参議院選挙を前にして、こうした考え方にたって、政権構想を早急に具体化しなければならず、そのためのリーダーシップは、野党第一党である社会党に責任があると思う。

 社会党は全野党による共闘を主張してきたが、数年を経過したにもかかわらず、四野党の足並みは一致ではなく、分離の方向に進んできたことを冷静にうけとめなければならない。ネックは共産党にある。この党がいかに柔軟な路線を表明しようと、民主集中制をとるイデオロギー政党であり、党内にさえ民主主義が生かされない独善の党である限り、この党を加えての連合は不可能だということを認識しなければならない。これはすでに、世界的に実証されてきたことであり、共産党とは閣外協力が限界だということである。わたくしは日本における現実的な革新的連合政権の構想にに、共産党とはともに天を戴かずという態度をとれというのではなく、遠い将来は別として、現段階においては、前述のように対処することが壁につき当たっている社会党の政権構想に窓をあけることができると確信する。

 成田委員長は、社会党の提示した政策に賛成なら、戸籍を問わず、柔軟大胆に手をつなぐと総選挙中に述べた。しかし最近、いまの段階において政権構想に線引きをすることに反対し、参議院選挙での保革逆転をかちとることが先決だと述べている。この前段の部分は、革新側の政権構想に「保」が入れられたことが画期的な提案だと思う。しかし後段についていうなら、実は参議院選挙前に、政権構想を具体化することこそ、逆転を可能とするのではないのか。参議院選挙を迎えて国民の社会党に対する最大の関心は、社会党が実現可能な、明確な政権構想をもって臨むかどうかにかかっている。もし、社会党が具体的な政権構想を持たず、政権構想の意欲を具体的に示さないなら、ふたたび自民党勢力が復活するおそれもある。現在、社会両党間で若干の選挙区での共闘の話し合いが進められているが、このことさえも、社会党が明確な政権構想にふみ切らないかぎり、まとまらないのではないかと」憂慮される。

 五万に足りない党組織で、一千万を超える得票を重ね、広く革新を代表する国民常識の党として歩んできた社会党は、今こそ決断すべきである。わたくしはこの際、連合の可能な諸政党をはじめ、広く諸団体、学者専門家によびかけ、連合政権の基調、中心にすえる政策の具体化のため、社会党のイニシアによる、大シンポジウムを提唱すべきことを提案したい。保守に代る新しい連合政権樹立のため、広範な論議を組織する責任が社会党にあると考えるからである。

 社会党が、旧来の路線にとらわれ、新しい道をひらくことに怠慢をつづけるなら、なおも低落がつづき、自らを過去の政党とすることになるであろう。革新の革新は、構造改革提唱以来のわたくしの初心にほかならず、重大選択が迫られるいま、あえてこの提案を行うものである。

(1977年1月12日)



 一九七七年三月一日夜、霞ヶ関ビル三十三階、東海大学校友会館で現代革新研究会(江田派議員の総会)が開かれた。あの異常な大会の直後だけに、代理出席はほとんどなく、議員本人が四十二名集まった。

 この会の議題は役員の機構改変であった。従来は代表が江田三郎と三宅正一の二名制で、世話人も数人、事務局担当も数人という構成を、会長一名、副会長三名、幹事長一名に変えたのである。

 副会長人事は次回送りとなったが、会長は江田三郎、幹事長は阿部昭吾が満場一致で決まった。

 その瞬間、江田三郎は言った。

 「わしは脱党するかもしれんよ。こんな人間を会長にしたら、後でこの会が大変なことになりませんか」

 いかにも愉快そうに笑って言ったので、皆も爆笑して、「いいよ、いいよ。脱党したって何したって」と答えた。

 議事に引き続いて開かれた立食パーティーもお開きとなると、江田三郎は大柴滋夫と阿部昭吾を三十六階のレストランに招んだ。

 都市と農村―と選挙区が対照的なら、剛傑肌と実務家肌―とその体質も対照的な二人の腹心を等分に見ながら、江田三郎は言った。

 「脱党して、新しい日本を考える会を基盤にして全国区へ出ようと思う」

 阿部は「脱党するからには、何人かまとめて出なくては効果はない。根回しをある程度つけなくてはいけないのではないか」と諌めた。

 しかし江田三郎は、「いや、こういうことは根回しなんかしたら失敗する。私は一人で出るから、君たちは党に留まって、内外呼応して新しい情勢を作ろう」

 「今日の参加メンバーの何人が踏み出すかはわからないが、一人一人差しで話をつめて、十人でも十五人でも一緒に踏み出そう」と阿部は必死で説得したが、江田は「君の言うほうがスタンダードかもしれん。しかし阿部君、僕は一人で出る」

 すると大柴が横から言った。
 「うむ、やれい」

 阿部は驚いたが、江田のむしろサバサバした顔を見ているうちに、決断が本物であることを悟った。

 大柴、阿部はこの日、各々対照的な戦略を胸に、江田に続くことを決断する。

 三月二日、新しい日本を考える会の運営委員会が開かれた。議題は、三カ月後の参院選に考える会として無党派候補を擁立するか否かであった。

 考える会顧問の矢野公明党書記長と佐々木民社党副委員長は、江田三郎こそ無党派候補の最適任者として、熱心に「社会党離党、参院選出馬」を薦めた。江田は心を動かされるが、運営委員会後の記者会見では、「一応検討してみるが、立候補するかどうかは白紙」と述べた。

 翌三月三日、読売新聞に「江田三郎離党決意、考える会を基盤に全国区へ、先ず大柴滋夫、阿部昭吾、行を共に」という見出しの記事が載った。まだ根回しも何もせぬうちに舞台は勝手に回り出したのである。

 新聞を見た支持者から、倉敷の江田の自宅や事務所、新しい日本を考える会事務所などに激励の電話が殺到した。同時に「裏切り者」という抗議の電話も相次いだ。大柴と阿部も同様に激励と抗議の渦に巻き込まれた。

 もはや賽は投げられたのだった。

 三月三日夜、江田派は幹部会を開き、江田の離党を認め、今後の対策の相談に入った。

 参院選に全国区から出馬することには異議はなかった。しかし、新しい日本を考える会を基盤にして、というのには異議があった。「やるからには、あくまでも江田新党をつくって社会主義者としてやってほしい。無公民のリーダーというのではだめだ」と大柴が主張したのである。いったん倉敷に帰っていて三月五目に上京した江田も、大柴と同意見だった。

 実は新しい日本を考える会の松前重義会長の長男・達郎は、社会党公認の全国区候補者として、すでに運動を開始していた。松前会長は、「江田君の出馬によって達郎の票が減ったとしても、それは松前家の私事である。私は公事と私事とは区別して考える男だ。私に気を遣わずに“考える会”で立候補してほしい」と言った。

 しかし江田は松前の心情を察し、「江田新党」で行く決意をしたのだった。

 離党を決意した江田に対し、さまざまな慰留が行われた。成田委員長をはじめ、佐々木更三、三宅正一といった長老や、総評の幹部等々が説得した。しかし江田の決意はもはや変わらなかった。

 江田三郎は全国行脚を開始した。しかもその超過密スケジュールを縫って、『新しい政治をめざして』という著書の執筆に追われていた。

 大柴は、こうした江田の一人世帯を心配して、「外向きのことは我々で世話できるが、炊事、洗濯等内向きのことまでは面倒をみられない」と言って、地元が離したがらない光子夫人を、むりやり東京に引っ張り出した。

 全国行脚の間には印象深いさまざまなエピソードがあったが、ここでは二つだけを紹介するに止めよう。

 その一つは、三月十五日、神田の中華料理店で開かれた「江田三郎氏を励ます集い」である。参加者は東京の区議会議員や住民運動のリーダー二十数人だったが、いずれも江田書記長の下で安保闘争に参加した仲間であった。江田の信念を理解し、同調を誓った。

 特に江田が喜んだのは、彼らからのプレゼント、万年筆とあさだ飴であった。万年筆で離党声明を書き、飴で喉を大切にして全国各地で大いに喋って下さい、という趣向である。

 江田はこの万年筆で、本当に離党声明を書くことになる。

 もう一つは、三月十八日、社会主義運動の大先輩・荒畑寒村を訪れた時である。

 江田は当初、「ずっと疎遠でいて、今ここでにわかに訪問するというのは露骨すぎないか」と躊躇したが、周辺の強い薦めで重い腰を上げた。

 ところが、久しぶりで会った荒畑寒村は江田を歓迎し、「本当の改革というのはいつも少数派だ。今の社会党の中で社会主義のことを真剣に考えているのは江田君だけだ。私と君とは立場が違うけれど、君の行動を理解し、支援するよ」と励ましたのだった。

 江田はこの会談の模様を、その後くり返し語っている。よほど嬉しかったのであろう。

 三月二十六日、江田三郎は離党した。

 離党手続きは三番町ホテルで行われた。江田周辺は「最後のセレモニーだけは三宅坂の社会文化会館で」と願った。社会党本部のある社会文化会館は建築資金の大半を江田がかけ回って集めた彼の汗の結晶そのものだったからである。しかしこの願いは容れられなかった。くやしがる周辺に比して江田は、「そうか」と言っただけであった。

 離党手続きは、訪ねて来た石橋書記長に江田が離党届を手渡しただけ、ドライに短時間にケリがついた。

 離党した江田は、秘書の矢野凱也だけを連れて国会記者会館四階の大会議室に赴き、百人を越す記者の前で「離党にあたって」を読み上げた。



 このとき、江田三郎の長男・五月は、横浜地裁の裁判官であった。

 父親の離党の日、彼は同じ官舎住まいの裁判官仲間の転勤送別会に出席していたが、その席にまで新聞・雑誌数社がコメントを求めてやって来た。

 五月は「おやじおめでとう、と言いたい。やっとこれで自由に行動できるね」と答えた。

 たまたまこの日は、五月夫妻の結婚十周年記念日であった。


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