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福祉国家ではなく、福祉コミュニティーを 
衆議院議員 土肥隆一

 わが国の将来を考えるとき、片時も忘れてならないものは、「超高齢化社会」のことである。それは経済から始まって日本人の生き方、価値観を含む日本の社会のシステム全体を決めてしまうものと私は考える。まして福祉となると、まさに一切はこれに収斂するのである。

超高齢化社会は確実に来る

 厚生省人口問題研究所の、「日本の将来推計人口」(平成四年九月推計)によると、中位でみても、六五歳以上の人口の割合は一九九〇年一二・一%から二〇二五年には二五・一%となる。まさに四人に一人が高齢者ということである。平均寿命は男子七八・二七歳(現七六・一一歳)、女子八五・六歳(現八二・一一歳)まで延びる。これはともに世界最高の高年齢である。

 こうした社会を超高齢化社会と呼ぶわけだが、これは、日本の歴史始まって以来の社会現象であり、日本人が一度も経験したことのない社会を確実に迎えようとしているのである。

 問題は高齢者のみではない。これをだれが支えていくかである。当然、現役世代がそれを支える。現役のことを生産年齢人口といい、一五歳以上六五歳未満の年齢層を指すが、この層と高齢者との比率が問題で、一九九二年度「国民生活白書」によれば、一九九〇年統計では五・八人に一人であるが、二〇二〇年では二・三人に一人ということになる。

 この層は同時に子育てをするわけで、福祉、年金、医療そして教育(ほかにもいろいろあるが)の責任がずっしりと双肩にかかってくることになる。そればかりか、将来の生産年齢人口となる年少人口(一五歳未満)は年々減少し、五年後の一九九七年には老齢人口が年少人口を上回る。

 また、合計特殊出生率が一・五三人まで下がり、こうした現象が継続すると結果として、日本の将来人口は減少を続け、二〇九〇年では七〇〇〇万人を下るという。これを少子社会と呼ぶわけだが、国の活力の減退といったなまやさしい現象ではなく、将来の日本の存在すら危ういことを正視しなければならない。

ゴールドプランは政治的につくられた

 高齢化問題は、やはりその介護、看護を考えざるをえない。

 政府は一九九〇年度より「高齢者保健福祉推進一〇ヵ年戦略(ゴールドプラン)」を開始した。「誰もがどこでも、いつでも、的確で質のよいサービスを安心して、気軽に受けることができる」という意気込みは了としても、恐れを知らないキャッチフレーズで出発したものである。私はこれが種々の難点を含んでいるとしても、この計画の達成は将来の福祉を占う極めて重要なものと考える。

 政府自民党は消費税の導入にあたって、それを福祉目的税的ニュアンスを匂わせたのだが、実際は一般財源のひとつに過ぎないことが明らかになり、その結果、八九年参議院選挙で自民党は大敗を喫するわけである。

 そこで九〇年二月総選挙に向けての対策として、「福祉ビジョン」(八八年一一月)の手直しをして(八九年末)、この「高齢者保健福祉推進一〇ヵ年戦略」を発表したのである。

 この際指摘しておきたいのは、自民党の選挙政策ともいうべきこの計画が政府提案として出てくるという事実である。そのため厚生省は大急ぎで、しかも自民党の選挙に間に合わせようとしてつくったために、その内容の具体的背景、政策の整合性を十分煮詰めないままに出発し今日まできているのである。

 したがって、一〇年後の高齢者や国民にどんな老後社会をイメージさせようとしているのか分からない。福祉サービス相互の関連が分からず、追加して次々出てくるメニューを消化するだけでも大変で、自治体職員も戸惑うほどである。

 結局のところ、国民は自分の老後に向けてどんな設計をしたらいいのか分からないという具合である。つまり将来が全く見えてこないということである。

ホーム・ヘルパーの確保は可能か

 例えば、ホームヘルパー一〇万人という目標は、すべて行政ヘルパーなのか、それとも民間ヘルパーもカウントするのか。そのフルタイム換算はどうするのか。

 この一〇ヵ年計画が完了する一九九九年には寝たきり老人が一〇〇万人、痴呆老人が一五〇万人と推定されるが、仮に要介護老人二五〇万人として、この人たちの将来はどうなるのか。今でも政府の明確な答えは出ていない。

 在宅分野のメニューでは見えてこないので、逆に施設整備から計算するとやや分かってくる。特別養護老人ホーム(二四万床)、老人保健施設(二八万床)、ケアハウス(一〇万床)、そして高齢者生活福祉センター(四〇〇か所、人数不明)プラス特養ショートステイ五万床と合計六七万人となる。施設に全部収容したとしての数である。

 また、病院病床数はおよそ一六六万床であるが、施設、病院合わせて一〇〇万人に対して何らかの施設対応をするとして、残る一五〇万人は在宅ということになる。

 それを支えるのが在宅福祉の本命であるホームヘルパーであるが、フルタイム一〇万人としても、一人一五人担当ということになる。それも身障者を含む。訪問を週二回、一回二時間程度を標準として考えると、約三倍、三〇万人のヘルパーがこの一〇年計画で必要になる。ここには民間のホームヘルプ事業(有償、無償とも)はこの計画に入れないとしてである。

 私は 「在宅介護支援センター」構想を高く評価するものであるが、一万か所の計画で現在一二〇〇か所しかできていないのは何故か。従来の福祉事務所の業務とセンターとの関係、位置づけが不明確で自治体も消化できないでいるのではないか。

「老人保健施設」はどこへ行く

 一方、施設整備の目玉「老人保健施設」の整備はその性格と目的をめぐって十分な構想を重ねてこなかったのではないか。

 医療施設でありながら病院ではなく、また生活を中心とした福祉施設でもない。まさに「中間施設」であるが、その中間の性格も不明でその医療費の支払い方法(定額一括支払い方法)をめぐって医療関係者の関心も今一つ呼んでいないのではないか。それに、施設整備の補助金や税法上の恩恵は少なく、関係者がこの事業に興味を示すまでに至っていない。

 ケアハウスについても、従来の軽費老人ホームの見直しの結果、高齢者の自立と生活の質を高いものにしたいという願いに応えるものとして意味深いものと考えるのだが、それがいま一つ関心を呼んでいないのは、要するにこの施設の特長に関係者、地方行政の理解が追いついていないため、これに取り組もうとする人が得られないでいるのではないか。

権限委譲は地方分権の第一歩

 一九九二年には「老人福祉法等八法の改正」を行い、前記ゴールドプラン推進のための法的整備を行った。その主要な内容は、(1)在宅福祉サービスと施設福祉サービスの市町村への一元化 (2)市町村、都道府県の老人保健福祉計画の策定である。つまり、在宅および施設福祉の市町村への措置権限委譲である。これをもって、超高齢化社会を迎え撃つ切り札としたいというのである。

 市町村はまず老人保健福祉計画を策定して、来年度から実施することになっている。ところが、この計画策定の作業が進んでおらず、ゴールドプランは地方によって進捗状況がばらつき、計画は大きく狂ってくるであろう。

 保健福祉計画の市町村の策定は、旧来の行政手法を徹底的に変えることを意味するのに、補助金体制はそのままにしておいて策定を急げといっても市町村財源が一元化されないのではできるわけがない。

 ゴールドプランおよび権限委譲は地方分権を目ざす行政改革の第一歩とすべきで、補助金、負担金という方式が全く変更されないうちは地方が独自の福祉思想と地方の特色をもった計画を出してくるとは思えない。国が措置権の権限を市町村に委譲したのだから、この際思い切った財源を含む新しい方向を出すべきであろう。

基礎的共同体の形成を

 臨時行政改革推進審議会の第三次答申(一九九二年六月一九日)を読むと、「行政の守備範囲の見直し論にとどまらず行政の介入の在り方を直接的なものからより間接的なものに改める」「統一性・公平性の確保を第一とする中央集権的な行政を、個人の能力や地域の可能性を最大限に伸ばしていく行政に転換し、自立的で多様な地域社会の実現を目ざしていく必要がある」という。また、豊かな地域社会を形成する観点からは、「高齢社会に対応しうる地域福祉社会システムの整備」をいう。そして、ここに「地方分権特例制度」を提案する。それは「地方分権への突破口として、自立の意欲と自主的な地域づくりに取り組む行財政能力等を備えた地方自治体を対象に、先導的試行として特例的に自主的な地域づくりへ取り組んでいくための基盤亜備を図ることをその内容としている」という。

 私が最も注目するのは 「時代の要請にあった基礎的自治体」である。私はこれを基礎的共同体(BASIC COMMUNITY――筆者)という概念でとらえる。果して行革審自体が意識していっているのか分からないが、これは、インカ帝国の共同体にさかのぽる言葉であることを私はペルーを訪問したときに知った。それは「解放の神学」に引き継がれるのであるが、社会の基本的単位とは何か、その中で人間はどうあるべきかを根本的に問うものである。これを単に三三〇〇市町村と理解してはならない。

 基礎共同体はそれ自体が生きた、つまりそれなしには生きていけない生活単位であり、強制的ではなく参加、他律的でなく自律的、極めて精神性の高いコミュニティといっていい。その新しい、創造的なコミュニティをもってはじめて満足度の高い、合意形成的な社会が生れ、市民合意の政策が展開されるのである。基礎的自治体は福祉コミュニティのことである。共生の社会は完全な参加と自己決定を意味する。

 私は「福祉国家」を望まない。なぜなら、そこには国家が福祉の名を借りた画一的なサービス提供の主体となり、これゆえに国民を管理する主体ともなるからである。市民、国民が主体とはならないからである。

 それを実現するためには、まず財政を含めた大幅な地方分権を求める。市民の生活はすべて市町村を単位として考える。それも基礎自治体を指向する住民合意の市町村の分離組み替えも含む。そこではじめて、地域住民が共に生きていくとはどういうことか、基礎となる生活の単位としてのコミュニティとはどうあるべきかを考えるだろう。また、その共同体が財政のあり方(負担の受容)、さらには福祉・医療マンパワーの資源についての極めて現実的な計算と分析をするだろう。


土肥 隆一(どい・りゅういち)

衆議院議員、兵庫1区、社会党。1939年、旧・京城に生れる.東京神学大学大学院修了。現在は、和田山地の塩伝道所の主任牧師を務める。社会福祉施設の施設長の経験もあり、在宅福祉の分野では、有償ボランティアを先駆的に手がけた。政治家としての経験は浅いが、社会福祉の現場から福祉政策を提言できる現実派。障害者(児)福祉推進議員連土事務局長。(厚生、安保、物持)


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