第八章 裁判官の姿勢 目次前へ次「私が下した決定、判決」

   あてにならない認識や記憶

 およそ人間の認識や記憶ほどあてにならないものはない。自分が絶対正しいと思っていることが、実はとんでもない誤解や思い違いだったということは、誰でも経験していると思う。もっとも、こういう経験は、すぐに忘れてしまうが。私は裁判官の時、よく次のような話をした。

 ここに一つの茶筒がある。ある人がこれを真上から見て、円があったと認識する。彼は、時間が経つに従い、これを球だと思い込む。別の人が、その茶筒を真横から見て、長方形があったと認識する。彼は次第に、これを直方体だと思い込む。後に二人が出会って話をすると、二人はお互いに相手は嘘を言っていると思い込むことになる。実は茶筒なのだ。だから、あまり自分の記憶だけを絶対視せずに、相手の言い分にもいくらかの理があるのかと考える余裕を持ちなさいよ、というようなことだ。

 以前イギリスにいたころ、スイスへ旅行したことは前に書いた。ジュネーブで、妻と真理子と共に、夕食をしてホテルに向かってブラブラ歩いていたら、一見して日本人とわかるおじいさんが途方に暮れた様子で街頭に立っている。私たちを見つけて声をかけてきた。助けてくれという。事情を聞くと、パック旅行で初めて外国に来たのだが、みんなとはぐれたという。フランスから貸切りバスでジュネーブに着き、ホテルに入ったが、夕食まで少しの時間があるので、仲間と共に買物に出た。宝石屋か何かで買物に夢中になっている内、ふと後を見ると、一緒に来た仲間がいない。気がつくと、泊まっているホテルの名前も覚えないまま飛び出していた。確か、ホテルの前に湖があり、信号のある交差点を二つ渡ってここに来たと思うが、そのとおり戻ってもホテルに着かない。言葉は日本語以外ダメで、警察へも行ったが相手にしてくれないというのだ。

 私は、妻と子供を先に帰して、おじいさんにつき合うことにした。食事をしていないのだろうと思い、簡単な食堂で食事をしてもらったが、おじいさんは、なんと円しか持っていない。そのあと、記憶に従ってあちこち歩いてみたが、さっぱりだ。警察へ行くと午前零時過ぎると各ホテルの宿泊者名簿が集まってくるから、どこのホテルかわかるという。そこで、待つことにしたが、それでももう一回と思い、外を歩きまわっていると、おじいさんの乗ってきたバスが駐車してあった。そのそばに、運転手がおり、やっとホテルがわかった。行ってみると、おじいさんの記憶とは全然違う場所にあった。絶対確かというホテルの前の湖は、影も形もなかった。

 人の記憶がいかにあやふやかという一例である。同じ日の出来事でもこのとおりだ。私は、おじいさんを責めているのではない。誰でもこういうことはある。特に、訴訟になるような場合には、こういうことが多いのだ。人間は、不完全なものであり、そういう人間が社会を作っている以上、紛争はつきものだ。誰が悪いのでもなく、それが社会の生理現象なのだ。だから、そういう人間の弱さを思えば、権利意識の強調を和解の拒否に直結させるのは、性急な短絡だという結論に到達せざるをえない。

 しかも民事事件では、判決で勝っても権利が得られるだけだ。権利は紙切れであって、実体ではない。「AはBに一千万円支払え」との判決が出ても、その段階でAは一円の支払い能力もないことがある。それよりもAが支払い能力もあり、支払う意思もある段階で「AはBに五百万円支払う」との和解にした方が、Bにとっては有益であろう。交通事故の被害者などの場合、生活の足しになる解決方法がどうしても必要である。加害者の側に支払いの意思を持たせ、支払いのために金を工面する手段も講じさせて、現実に金を払わせるということがどうしても必要なのだ。それでこそ被害者救済の実効が上がるのだ。たとえ判決で二倍、三倍の金額を宣言したところで、加害者に支払いの意思も能力もないときは、被害者は生きて行けない。

 判決という方式では時間がかかり過ぎる欠陥もある。交通事故の例でいえば、加害者側に支払いの能力があっても、判決が不当だと思えば控訴、上告できる。双方の言い分を尽くさせる手続きを取っていれば、どうしてもある程度の時間は必要なのだ。貨幣価値が大きく変わる時代に、現在の五百万円と十年後の一千万円のどちらが良いか。被害者にとっても現在の五百万円の方が良いのではなかろうか。

 このように考えて民事裁判を行えば、それは極めてダイナミックな作業だ。レベルの違うさまざまな要素をにらみ合わせながら、利害の調整を図っていく。双方を説得し、納得させていくわけだ。私は双方の弁護士のいうとおりに、この証拠も、あの証拠も調べていくという受身の訴訟指揮はしなかった。常に疑問の余地を意識的に残しながらではあるが、ある程度の心証がつかめたらすぐに和解をすすめる。私自身の事件についての見方を述べて「こういう方向で和解したらいかがですか」と双方の弁護士に提案する。そのため事件が早く処理されていくことも多かった。裁判官に積極派と消極派があるとすれば、積極派だっただろう。

 裁判官時代に感じたことの一つは、最近裁判所や裁判官に対する期待が強すぎる面があるのではないかということである。それはいろいろな社会的背景もあり、それなりの考慮から出て来ることであろう。日照権の問題についてはすでに書いたが、それと同種の訴えも多い。他にも例えば男女間の葛藤のような心情のレベルの問題は、裁判所ではどうにもならない。それでも判決で相手側を完全にやっつけてもらえるのではないかと期待し、訴えを起こす例を時に見かける。心の満足まで裁判所に期待するのは、裁判所にたいする「お上」意識の裏返しにすぎない。心の問題は自分で解決する以外にないのである。

 戦前は、裁判は天皇の名において、天皇の権威で行われた。天皇の名において判決が述べられ、それを有難がっていた。今もまたどんな問題でも裁判にかけ、自分の主張を認めた判決については金科玉条のごとく有難がる人たちがいる。社会的公正を主張してやまない法律家の中にもこのような人たちがいるが、これは戦前の司法制度の名残りの、裁判の神格化、物神崇拝だと思う。裁判とはもっと機能的なものだ。また裁判なんてそれほど素晴しいものでもない。

 公害事件でも、判決ならば公害企業がはっきり非難されるから正義に合致し、和解ではそうならないから企業が野放しになってしまうというほど単純なものではない。いろいろな配慮から「和解ではいやだ。是非とも判決を」という主張をされるのだろうが、その姿勢の背後に無意識ではあっても裁判所と判決を神格化する意識がなければよいがと思う。

 ただ国民の側に、裁判所に対し、悪を悪とはっきりさせてくれという要求があるのは事実だ。裁判所がそれに可能なかぎり応えていく努力を惜しんではならないと思う。なぜかはぐらかすように、はぐらかすようにとしている感じがないとはいえないので、裁判所としては正面から応えていく方がいいと思う。多くの国民が「裁判所は詭弁を弄して問題を回避した」という印象を持つようでは、司法の権威を高めることにはならないであろう。

 千葉時代の四十八年十二月、千葉市の官舎に移った。木造の広い家だったが、押入れの床のすき間から草が伸びていたり、壁の穴から月がのぞいたり、なかなか風情のある古い家だった。敷地は三百平方メートル余りもあり、庭では相変わらず野菜や花を作っていた。このころ二男が生まれ、剛と名付けた。

横浜地裁の裁判官執務室で

 横浜に転勤すると同時に、横浜市金沢区の官舎に移った。長女、真理子は小学校へ入学した。たまにではあるが、勉強を見てやることもあった。二年生の時だろうか、父親参観日に出かけた。「父親から意見を聞きたい」ということであった。「名古屋から転校してきましたが、宿題がぐんと少なくなりました。大丈夫でしょうか」というような、ものすごい質問ばかり出る。たまりかねて「学校へ通わしている以上、先生にまかせる以外しようがありません。何も注文しませんから、先生が良いと思う教育方針で、思い切って娘を育てて下さい。そのかわり先生も、どこか他の学校や他の教室でやっていることを真似するのではなく、何をやったらいいか、どういう教室に、どういう子どもにしたらいいか、真剣に考え、思い悩んでください。結果として娘がどうなろうとも、一切口出ししません」と発言し、先生から感謝された。私の教育論はこれが真情である。親と子、教師と生徒が真剣にぶつかり合うことが大切であり、その中で子供たちは何かをつかみ成長していくのである。いろいろ聞くにつけ、今の学校はあまりに個性を失った存在になっているらしいが。

 官舎にはいつも子供の友だちが来て騒いでいた。私はそれでよいと思い、仕事の都合で子供を締め出したりしないようにしていた。裁判官は週四日程度の出勤で、残りは宅調といって自宅で調べ物をすることになっているが、これが必ず夜の仕事になった。とくに私は、判決起案というようなまとまった仕事をするときは、近くに人がいるとダメだ。このため深夜、未明に及ぶことになる。このせいか、イギリスから帰ったころから胃がおかしいと感じるようになっていたが、特に五十二年初めごろから一度きちんと検査をしてもらわなければならないと思うようになっていた。

官舎の家族たちと六国峠越えのハイキング

 横浜地裁に転勤後、義兄が二千円で下取りに出すつもりだという中古車をもらった。十年目のコルト1100だ。湘南海岸、鎌倉などを二週間に一度ぐらいはドライブしただろうか。幸いこの車で交通違反をして捕まったことはない。時に母が上京して来るが、それに合わせて父の家へ行き、団らんの時をすごした。その時々の父の行動について一応理解し、共感も持っていたが、特に政治について深く話したことは全くといっていいほどなかった。

 官舎住まいの間は他の裁判官と家族ぐるみの付合いが多かった。時々難しい人はいるが、おおむね気さくに交際できた。しかし裁判官となって、交際の範囲が狭まることも警戒した。学生時代の友人とは違う道を歩んでいても、できるだけ交際を続けるようにした。行政官庁に進んだ友人たちと定期的な研究会を開いたり、法律学者とも研究会をやっていた。英国留学の仲間とも、年に一回ぐらいは顔を合わせることにしていた。こういう生活全体をひっくるめて、裁判官生活は、いまでは楽しい思い出となった。仕事は意義あるものと思い、一件一件の事件ごとに個性が違う面白さがあった。裁判官はやればやるほど好きになった。私に向いた仕事だという確信がしだいに強まり、自ら辞めることなど思いもよらぬ気持になっていったのである。 


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