第六章 司法修習生―― 裁判官 目次前へ次「厳しい二回試験」

   結 婚

 刑事裁判修習が終わって弁護修習が始まったばかりの四十二年三月二十六日に結婚した。妻は京子。旧姓、深谷であり、父親の深谷克海氏と私の父の関係についてはすでに書いた。三十九年ごろ、私が深谷家へ遊びに行ったのが、付合い始めるきっかけだったように思う。私より二歳年下ではあるが、私が道草を食っているので東大の「三年生」、彼女も津田塾大の三年生。そのあたりで気が合ったのかもしれない。

結婚披露宴での私たち 四十年夏、司法試験の準備のために私が友人らとともに蓼科に行ったとき、一緒に行って食事の面倒を見てくれたりした。「光の子学園」のリーダーになるよう私が説得、彼女も参加した。私も修習生になり、一応の収入もある身になったので、結婚ということになった。

 森田明君、横路孝弘君、江橋崇君(現法政大助教授)らに実行委員になってもらい、一応私たちなりに考えた結婚式にした。仲人の秋山長造参院議員のあいさつの後、二人が婚姻届に署名、その後「宣誓」をするのが“式”だった。信じていない神様の前ではなく、参会していただいた人々(会費千円で二百二十人)の前で、結婚の儀式をやろうという考え方だった。

 まず京子から私へ――。

 長い間、はぐくんできた友情が親しみに、愛に変わり、ここにあなたとの共同生活のスタートラインに立つことができて、仕合わせでいっばいです。(中略)あなたの決断力ある行動と思考から私が吸収したものは数知れません。あなたとなら、どんな苦難の道をも共に乗り越えて、理解し合いながら、常に前進の道を歩んでいける確信と喜びを持ったのでした。(中略)これから二人の共同生活が始まるわけですが、一つお願いがあります。あなたの持っている青年らしい情熱とバイタリティーを家庭のみに費すことなく、どんどん外に発揮して下さい。(後略)

 続いて私から京子へ――。

 私はかねてから家庭は決して一つの固定的組織ではなく、むしろ、独立した人格を持つ二人が、協力し合って常に人生を創造していく一つのプロセスであり、夫婦は決して同一体ではなく、独立した二つの人格がお互いに影響し合い高め合うものでなければならないと思っていました。(中略)いかに現実の社会が資本の論理の貫徹した機械の社会であろうとも、私たちの家庭は尽きることのない愛と信頼の泉にしていきます。

 さらに二人が参会者ヘ――。

 私たち二人は、憲法第二十四条にのっとり、個人の尊厳と両性の平等にもとづき、自由な二人の合意により、ただ今より社会の基礎的単位たる夫婦として、お互いに愛し合い、信じ合い、助け合って、よりよき家庭を築くよう努力することを誓います。

 今読み返してみると、我ながら面映ゆい気もする。「秀才と才媛」などと皮肉って週刊誌に書かれたりした。しかし結婚なんて、誰もが面映ゆいもののようだ。それなら自己流でやった方がマシだろう。「宣誓」どおりかどうかは別にして、人並みの家庭にはなっているだろう。時には夫婦ゲンカもするが、それほど大事にならないのが私たちの家庭の現状というところだ。

わが家の菜園で 復学後、荻窪から移って、赤坂の議員宿舎で父、私、拓也の三人で暮らしていたが、結婚直前に国分寺市に六畳一間と台所の狭いアパートを借り、そこが新居となった。ここで初めて長距離通勤を体験した。結婚直後の弁護の修習では高木右門弁護士の下についた。このときは新婚のせいか、ぼうっとしていて、たいしたことをやってはいなかったように思う。

 最後の民事裁判は桝田文郎裁判長につき、このときは本当にたくさん判決を書いた。期間中桝田裁判長判決のほとんど全部を下書きさせてもらったと思う。もちろん裁判長が手を入れて印刷に回すわけだし、大部分は原文がなくなるほど直されるのだが、私にとっては最も勉強になった。このときから民事裁判が面白くなっていく。

 民事裁判の実務修習の頃から、将来取るべき道を考えなければならない。検察官になることはまったく考えなかった。当初の希望どおり弁護士になるか、あるいは裁判官となるか、どちらかである。その二つを比較してあれやこれやと考えた。弁護士は自由業であり、庶民の実感から出発するといわれる。裁判官は雲の上の存在で、弁護士が庶民の実感から拾い出して作りあげた料理を吟味するというわけだ。それはそれで、当たっていないこともない。

 しかし弁護士が本当に自由であるかどうか。裁判官と違って一人で仕事をし、拘束がないから自由というのは甘い考えではなかろうか。弁護士は収入を得なければならない。多少イヤな仕事でも引受け、理屈に合わない主張もして報酬を得なければならない場合もあるだろう。弁護士会があり、その中での人間的なしがらみもあるだろう。そういう意味では人間がこの社会で生きている限り、何らかの拘束は常にあるわけだ。組織の中にいるから不自由で、離れていれば自由という簡単な割り切り方はできない。

 他方、弁護士が庶民の味方であるというのも疑問が多い。弁護士の生活は、庶民、労働者よりずっとずっと良い。そういう生活の中で、本当に庶民の味方であると言い切れる弁護士は少ないだろう。

 「自由」といい切れるのは、自分がいかに拘束されているかを正確に認識することから始まるのではないか。今の一般国民はほとんど組織の中に組み込まれている。その意味では拘束されているわけである。私たち自身も大多数の国民と同様、組織に入り、その中で組織に埋没せずに創意性、自発性を発揮して行く訓練を苦しみながら続けていく必要があるのではないか。

 裁判官の場合、普通のサラリーマンと違って拘束はきわめて少ない。しかし一つの組織の中で仕事することは同じだ。その中に飛び込んでみた方が、「弁護士=自由業=庶民の味方」という図式の上にアグラをかくよりも良いという結論に傾いていった。

 政治活動については、この時代は、できるだけ遠ざかっていたいと思っていた。社会党内で構造改革路線が敗れ、また自民党政権が変わる見通しは、誰が見てもしだいに薄れていくような時期だった。すぐに社会党に飛び込んでも明るい見通しはない。日本の政治が本当の意味で変わるためには、政治の担当者が変わるだけではどうしようもない。国民全体の政治的意識水準、政治的風土が変わり、国民全体が政治的に成熟し、政治的土壌がいつも煮えたぎっている状態にならなければ、政治の革新とはいえないのではないか。このように考えていた。しかし現実にはそういう変革を試みても、極めて難しい時代だった。将来政治を志すにしても、この時期には政治から一歩距離を置き、蓄積を多くすることが大切な時期ではないかと思った。

 若い法律家の団体として、青年法律家協会がある。それほどたいした組織ではなく、目くじらを立てるのもおかしいのだが、私はあまり活動する熱意もなく、研修所に入所直後から入会を説得されたが、なんだかんだと延ばしていた。しかしあまり頑強に拒否し続けるほどの理由もなかったし、友人たちとの付合いもあったので、六月ごろ入会した。不熱心な会員だった。

 私が弁護士になると、総評弁護団、自由法曹団から入会のすすめがあるだろうし、そうすると、社会党活動もして、将来は父の跡を継いで政治家になるという道しかなくなる。そういう人生の選択は、少なくとも主体的選択とはいいがたい。

 とにかく自分の人生だから主体的選択をしてみたい。皆が予想するコースではなく、ちょっとした反逆を試みてみたい。さらには有名人を父に持った者として、父の影響力が及ばない、父の磁力線の届かない場所で自分自身の可能性を試したい。どの点から考えても「裁判官になるべし」ということになった。

 この頃、父の方から「弁護土になるなら、どこか弁護土事務所を紹介しようか」と言われたことがある。「裁判官になろうと思ってるんだ」と答えると「裁判官で生活できるか」という。私が「まあできるだろう」と答えてこの問答は終わった。


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