第五章 復学から卒業へ 目次前へ次「光の子学園」

   司法試験に合格

 三年の後期試験(三月)を終わって、春休みに、横路孝弘君ら数人と、短答式試験について若干勉強した。これが唯一の司法試験対策の勉強だった。五月の短答式試験は通り、七月の論文、九月の面接も通った。自分でもびっくりした。

 たいていの人が何年も勉強するといわれ、なかには一生かかって目指し続けながら脱落する人もいる。文句なく「日本一難しい試験」である。それなのに私は、大学の講義だけしか勉強していない。中には私の学んでいる学説が異説で、通説は違うというから、通説の教科書を買って読んだ科目もあるが、それも一読する程度である。

 この結果を見て、司法試験にある種の「権威」を感じたのも事実だ。私自身、自分の勉強方法が間違っているとは、全く思っていない。受験技術を中心とした勉強ほど下らないものはない。しっかりと学問を勉強しておけば、必ず通ずるものだと思ったし、通らなければ試験の方がおかしいということになる。司法試験はおかしくなかったわけである。

 東大法学部は学部卒業生から直接助手を採用する。私も、助手に残って何かを研究することも真剣に考えたこともある。丸山教授は助手を採用しない。東洋政治思想史専攻では「飯が食えない」という理由だ。

 当時、私がもっとも魅力を感じたのは行政法であった。行政法は最も権力志向の強い学問である。しかも帝国憲法下で美濃部達吉博士が体系化して以来、基本的な点では一歩も進んでいないと思われるのが、日本の行政法学である。美濃部博士の学説は帝国憲法下でも民主的契機を取り入れたものだったが、それにしても憲法は大きく変わったのに行政法が変わらないのはおかしい。

 もともと行政法の分野では「憲法は変わる。されど行政法は変わらず」という格言があるくらいである。行政法は国家機関の行為法である、人間が飯を食い、排泄し、眠るのと、国家機関が行為するのとは同じことだ。だから行政法が変わるはずがないということだ。国家機関は公権力であり、私人に対して優越的地位を持っているからとして、国家機関の行為であるということだけで公定力という特別の効力を与え、自ら取り消すか、または裁判所によって取り消されるか、ひどい誤りがありもともと無効だという場合以外には、誰もこの有効性を争えないとする「公定力理論」が行政法理論の根本にある。

 この行政法理論にぶつかって検討し、その結果新たな行政法体系を打ち立てる必要があるのなら、その作業を進めることに最も強く引かれたわけだ。私は早晩、自民党政権はつぶれると思っていた。その後の政権についていろいろ論議はあろうが、いずれにせよ近代的市民の日常を持った人たちの政府とならなければ意味がない。そういう近代的市民の政府が、同じような行政法理論で権力を行使して良いのかどうか、問題だ。基本的人権を根本に掘えた行政法理論が確立されるべきだと思っていた。

「大学卒業式の日に」 1966年3月 助手になるなら行政法と思ったのだが、他方では助手になったらドイツ語を勉強する必要が出てくる。一、二年の時あまり勉強しなかったので、これがちょっぴり苦痛だった。象牙の塔ばかりではだめで、実社会へ出ることが必要だとも思っていた。司法修習生を終わった段階で、象牙の塔へ戻ろうと思えば戻れる。二年間司法実務の勉強をした後、学者の道に入ることも有意義だろう。最終的選択は修習を終わった後にしようと考え、司法修習生になる道を選ぶことにした。この段階では、修習生を終わったら、おそらくは弁護士になるだろうと思っていた。

 法学部での勉強はそのまま続けて卒業した。この二年余りの私は、現象的にはガリ勉であったかも知れない。しかし法学、政治学を徹底的に勉強しようと思ったわけであって、決してよい成績自体を目指したわけではない。


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