第四章 東欧への旅 目次前へ次「気ままな貧乏旅行」

  ユーゴでのこと

 退学後、雑誌「マドモワゼル」 に原稿を頼まれた。その書き出しは以下のようなものだ。

 履歴書の賞罰欄には「一、賞罰なし」と書くのが常識のようである。だがもし将来僕が履歴書を書くことがあり、その欄に該当するなら、僕はなんら恥じることなく「昭和三十七年十一月、東京大学において退学処分を受ける」と記入するであろう。この処分を僕の大学生活の最大の記念碑にしたいからである。やろうと思ったことを自分の責任においてどんどんやっていかなかったならば、人生に悔恨を残すと考えていることの記念碑である。

東大退学後、資料の整理にあたる

 そうはいっても、現実には何もすることがなくて困った。その前から、父は衆議院にクラ替えするため参議院の任期満了に伴い浪人生活となっており、父と私は参議院議員宿舎を出て、荻窪の木造アパートに引っ越していた。このアパートで、駒場を中心にした学生運動関係の文書の整理をしたり、アルバムを整理して「わが青春の思い出である」などといきがったことを書いた程度である。整理した文書はダンボール箱一杯ぐらいになったが、裁判官になったとき学生運動とも“縁切り”だと思い、友人にあげてしまった。今また政治に踏み出してみれば、ちょっと残念な気もする。

 一年間どうしようかと思っているとき、父の友人である椿繁夫氏が「東欧へ行ってみないか」とすすめてくれた。父も「往きの旅費だけなら出してやろう」という。渡りに舟と飛びついた。

 椿氏は当時、全国金属労組の委員長だった。全金が加盟している国際金属労連の本部がチェコにあり、その関係で何とかめんどうを見てくれるだろうから、大丈夫だという。また社会党はユーゴスラビアと友好関係にあり、ユーゴの青年同盟あての紹介状を書いてもらおうということにした。あっという間に東欧旅行が実現することになった。

 往きは船にすることになった。ユーゴリニアという船会社の貨物船イェセニツェ号である。二月初め、横浜から出港するので私も乗り込むつもりだった。ところが貨物船だから焼津、神戸など日本の港に次々寄港する。日本人は横浜を出た時、いったん出国扱いされ、他の港で再上陸すると再入国となって旅券の有効期限が切れてしまうという不自由な規則があると教えられた。暇を持て余している身だから、日本の港めぐりもいいのだが、上陸もできずに船内に閉じ込もっているのではやり切れない。結局、三月一日門司港出発となった。

 出港までは、若者に共通の好奇心、ちょっとした冒険心が勝っていた。旅行中のことをいろいろ考えても「とにかく人が住んでいる所へ行くんだ。死ぬこともあるまい。なんとかなるさ」という感じだった。当時のアジア、アフリカへ行くのならちゅうちょしたかも知れない。行く先は曲がりなりにも独自の文化を持つ東欧である。心配、不安はあまりなかった。

 しかし出港した日、デッキに立っていると、日没後しだいに暗くなり、陸が見えなくなる。それと同時に、一挙に不安が高まって来た。「旅先でうまくやれるだろうか」ということもある。同時に「こんなことをやっていて、これから先一体どうなるんだろうか」という気持も強かった。退学処分にいたるさまざまな経過についての感慨もわいて来る。夜空を見上げながら「とにかく今の姿は、勇躍海外旅行に出かけるといったカッコイイものではないな」と思っていた。

 そういうセンチメンタリズムも一時的なものだった。船の生活も単調だが味わいのある面白いものだ。貨物船といっても、船底に便乗しているわけではない。この時初めて知ったのだが、貨客船と貨物船は船客の定員によって区別される。定員が少ない貨物船の場合、船医が不要であるなど、いろいろ有利な規定になっているらしい。イェセニツェ号は客の定員が十二人だから貨物船というわけだ。日本人は私一人だけだった。

 私の船室はなかなか豪華で、じゅうたんが敷きつめられており、シャワーもあった。船客が立派な食堂に集まり食事をするのだが、上等なユーゴ料理なのだろう、まず十分なものだった。もっとも、野菜はすべて煮てしまってあり、生野菜がなかったのが、もの足りなかった。また食後トルココーヒーを飲むことになっていた。自分で豆をひき湯をかけて作るようなもので、下半分はコーヒー豆と湯が混じったドロッとした液体だった。これもなじめなかった。とにかく上等の船室と、上等の食事が一ヵ月半で百二、三十ドル、四万円あまりというわけで、今でも暇があったらやりたいくらいだ。

 私以外の乗客はスウェーデンの若い女性二人とカナダ人、英国人など。スウェーデンの女性は、なかなか奔放な行動で、見ていて楽しかった。私の相部屋になったのは英国人で、年金生活をしているお年寄りジョン・ヒラム氏だった。オックスフォード大出のエリートだが、交通事故で妻子を同時に亡くし、その後は金、地位、名誉など世俗的な欲望を一切捨てた生活を続けていた。年金生活者となってからは、毎年海外旅行をしているという人であった。

 ヒラム氏と話すことから、私の海外経験は始まった。年寄りのせいもあって頑固である。日本について「寒い」といって非難するのだからあきれた。「それはあなたが来た季節が悪いからだ。もっと暖かい時期に来たらいいのだ」などと言っても駄目だ。自分の経験したこと以外は、容易に信じようとしない。

 ヒラム氏にとって、英国とアングロサクソソ民族が、世界で最も優秀な国であり民族であるという確信も動かないようだった。すでに「大英帝国の落日」などといわれる時期だったので、「最近の情勢はちょっと違うんじゃないですか」とひやかしてみても、「アメリカ以下の諸国はすベて成り上がり者だ」と一蹴されてしまう。しかし彼の知性、教養の深さは、そういう自信を十分に裏付けるものであった。言葉の端々に、英国人が積み上げてきた教養がにじみ出る感じがした。

 ホンコン、シンガポール、ポート・スウェトナム、ペナン(マレーシア)、カキナダ、コチン、トリチュール、マンガロ−ル(インド)、スエズ、ポートサイドの順に寄港しながらユーゴに向った。各寄港地では、上陸するとヒラム氏が最高級に近いレストランに誘って御馳走してくれる。洋食の作法もおぼつかない私だったが、おかげでなんとかこなせるようになった。それはともかく、そういう観光客向きというのか、旧植民地支配者向きの場所は、目を見張るような豪華さだった。

 しかし一般国民の貧しさは想像を絶するものであった。よく旅行者が書いているが、上陸するとすぐに小遣い銭をせびる子供たちがつきまとってくる。私は、片道切符を買った以外には、百ドルしか持っていない貧乏旅行者だったから、振り切って逃げるより他ない。路上でうずくまっている人たちも多い。骨と皮にやせ細った人たちが、私が通るのをじっと凝視している。誰かが「あいつを襲え」と指示したら、集団で襲って来るのではないかという恐怖を感じた。

 こういう貧富の差は植民地支配が意識的に作り出した側面もあるだろう。そして、今でもアジア諸国は、想像を絶する貧困から抜け出せないでいる。ちょっと寄港しただけでもこんなことが強く印象づけられた。

 ヒラム氏と付き合う一方、ユーゴ人の船員たちとも仲良くなった。船員たちは夜になると船底の部屋で酒盛りを始めるのだが、私も毎日のように参加した。英語を話せる船員はわずかだから、あまり言葉は通じないのだが、彼らは快く私を迎え入れてくれた。彼らといろいろな話をしたが、誰もが「建国」―― いま自分たちが、自らのカで国を作りつつあるのだという意識を持っているのには感銘を覚えた。指導者であるチトー大統領のことについても、個人個人が「チトーはこういうことをした。だから立派な指導者なんだ」と、自分なりに理解しているようだった。船員という普通の労働者にまで、このような意識が浸透している国を早く見たいという欲求はしだいに強まっていった。

 船の中で日本人一人というのは心細いという人もいるかもしれないが、私の場合はそれが良かった。誰にはばかることもなく、思いどおりに気楽に振舞える。ユーゴに着いて以後も同じことだが、一人旅の長所は満喫したと思う。

 スエズ運河を通って地中海、アドリア海に入ると、海の青さが印象的だった。「紺碧の」という形容は嘘ではない。アドリア海では、木も草もほとんどない、全体に真っ白な島が浮かんでいる。島には必ずヤギがいるという。ギリシャ文明は、ヤギが草木を食い尽くして滅んだという説もあるらしいが、アドリア海で見た情景は「なるほど」と思わせるものだった。気候は温暖だし、船旅の良さを十分味わった。

 上陸したのはトリエステの近くのリエカという港だった。ユーゴ青年同盟の人が迎えに来てくれていて、すぐに夜行でベオグラードに行った。ベオグラードでは実にいろんな場所を見せてもらった。学校は幼稚園から大学まで、工場、地域住民の生活など次々に青年同盟の人が案内してくれた。またチトー大統領が立てこもってゲリラをやった場所など、史蹟も見て歩いた。

 催し物も多かった。全国から青年を集めての集会がしばしばあり、それには必ず出席した。また五月一日にはベオグラードにいたので、メーデーの大行進も見た。私がチトーと会ったなどと書かれることが多いが、それは誤りだ。はるか遠くから演説を聞いただけのことだ。

 ユーゴでは労働者の自主管理が強く、労働者から選ばれた経営委員会が工場を運営している。また地域の自治会のような制度もあり、他の東欧圏に見られない民主的諸制度がある。外交面でも一貫してソ連中心のスターリン主義に反抗し、米英と大胆な接触を試みたり、アジア・アフリカ諸国と連携した自主外交を展開してきた。こういう魅力ある国政の裏側に、チトーの個人崇拝があるのも事実だ。チトーの写真はいろんな場所に掲示されているし、ちょっとした集会では「我々はチトーとともに、チトーは我々とともに」というスロ−ガンが叫ばれる。

 ユーゴには四月中旬から六月中旬まで約二ヵ月滞在したから、いろんなことをやった。オーストリアからユーゴを貫通してブルガリアからトルコヘ抜ける国際高速道路を建設中で、その工事現場がべオグラードから車で約二時間のところにあった。青年同盟がその建設に協力していたので、その工事現場のようなところで四、五日暮らした。私も工事を手伝いに行ったことになるのだが、ほとんどサボってばかりで、ちょっとクワを持って土を掘った程度の働きぷりだった。驚いたのは、その工事現場での食事だ。昼は堅いパンと、固まって羊かんのようになったジャム、それに生の玉ネギ一つを渡されるだけという粗末なものだった。夕食はさすがにもう少し良かったが、そういう食事に耐えて労働しているわけだ。

 ただ「強制労働」といった暗さはなかった。ユーゴ各地の青年同盟員が入れ替り立ち替り来て労働奉仕しているわけだが、どの青年も明るい表情で働いていた。飯場のような施設ではあっても、医療設備は完備している。また毎晩のように娯楽の催し物があり、労働を通じて青年が交流する場といってもよい。

 ザグレブ、リュブリアナなど、他の都市も案内してもらった。ザグレブはクロアチアの中心都市で、ウィーンに似た落着いた文明都市である。セルビアの中心であるべオグラードがユーゴの首都となり、新しいが落着きのない街であるのと対照的である。スロベニアの中心部市リュブリアナは、この両都市に比べれば田舎で貧しい印象を受けた。この他、ハンガリー国境近くのスボティツァ、ノビサドなど、さまざまな町を歩いた。

 ドナウ川もみた。雪融けの時期だけに「美しく青き」ドナウではなく、茶色に濁ったドナウだった。ドイツが源流でオーストリア、ハンガリー、ユーゴ、ルーマニア、ブルガリアを通る国際河川だと学校で習ったことを思い出した。こういう川の問題で隣国と緊密に連結し合う必要があるから友好関係が深まったり、逆に争いのもとになったり、いずれにせよ国際関係が極めて具体的な問題から出発することがよくわかる。日本とは違うなと思ったりした。

 これらの各地でも青年同盟の人がずっと案内してくれたが、これは「監視」ではなかったと思う。「見たい」と注文したところはほとんど見せてくれた。リュブリアナに着いた時は、列車が大幅に遅れ、出迎えの人がしびれを切らせて帰ってしまった。一人でなんとか駅前のホテルに部屋をとったが、英語が通じない。大学で学んだドイツ語を試みたが、さっぱり通じない。結局、カタコトのセルヴォクロアート語でやってみたらなんとかなった。外国語とはそんなもので、習うより慣れろだ。

 青年同盟から小遣いをもらって本もずいぶん買った。ほとんど英語の本で、帰ってから読み、ユーゴについての理解を深め、うまくいったら本の一冊も―― と思っていたのだが、帰国後はほとんど読まないままだった。工場経営のシステム、生産量や価格の決め方など、説明されたが忘れてしまったことも多い。

 酒場へ行くのも楽しみだった。日本のバーのようなものでなく、喫茶店で酒を飲むという感じだ。リースリングというワインがうまい。ユーゴの人はこれを炭酸水で割って飲む。飲むほどに酔うほどに、見ず知らずの隣の客と語り合ったり、歌ったり、愉快だった。私もイェセニツェ号の船員に教わった「遠い遠い海の向うのちっちゃな街に、可愛い恋人がいる」といった歌を歌ったりした。

 ユーゴの旅行中「日本人だ」というと、必ずといってよいほど「じゃあピンポンが上手だろう」といわれて困った。ユーゴ人が卓球好きであり、当時日本の卓球は世界を制覇していたためだろう。「日本にはピンポンの上手な人は沢山いるが、私は下手だ」と答えるしかなかった。「ジュードーはやるか」というのもあった。「フジヤマとゲイシャ」とよくいわれるが、少なくともユーゴではそういう日本像は皆無のようだった。

 ユーゴにはこれといった芸術の古典はない。トルコなどの圧政が長く続き、民族固有の文化が育たなかったという説明だった。現在、文化育成の諸政策を取っているが、これが社会主義リアリズムといった政治色の強いものでないことにも感心した。モダンバレーや前衛的絵画を見せてもらった。私には優れているのかどうかわからないが、政治による文化統制はないようだった。

 ユーゴで最も強く感じたことは、国の成り立ちが、日本と全く異なっていることだ。よく「二つの文字、三つの宗教……六つの共和国」といわれるが、複合民族国家である。一つの国家の中にいろいろ特色の違う民族や地域があることを前提として、これを一つの国家としてまとめて行こうという国民共通の意識がある。

 ユーゴの諸民族に共通している歴史は、トルコとハプスブルグ王朝のオーストリアによる圧政の歴史だ。その中からさまざまな民族独立運動が起こり、結局第二次大戦中のチトーの運動が、最終的に成功を収めたわけである。その運動に参加した市民も多い。そうでない若い人たちも、国家としての独立の貴重さ、社会主義という体制を選んで国づくりを進めていくことの大切さを、よく理解しているように見えた。そういう国民の意識を背景に、ソ連と距離を置いたチトーの外交政策も成り立っているのだ。

 ユーゴの軍備についての考え方は極めてユニークだ。圧倒的に強大な軍事力を持つソ連が仮想敵国なのだが、もちろんソ連と対等の軍事力を持つほどの国力はない。三日間だけ国境線を維持するということを目的に、軍備の量を定めているという。三日間国境線を維持している間に、国民はゲリラを組織する。軍事的には占領されても、そのゲリラで抵抗し、いつかは占領軍を追い出そうというのが、国の方針なのだ。今はどうなっているだろうか。 


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