第三章 学生運動と退学処分

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  浅沼委員長の死

 社会党委員長の浅沼稲次郎氏が刺殺された三十五年十月十二日午後、私は映画を観ていた。大島渚氏の 「日本の黒い霧」と他に一本、二本立てだった。休憩の間にロビーに出てみると、テレビで犬養道子さんら四人が何か興奮して話している。犬養さんが祖父の犬養毅がテロに倒れた五・一五事件のことを話しているので「誰かやられたな」と思い、テレビに見入っているうちに、浅沼氏とわかった。「これは大変だ」と、映画は途中やめにして、議員会館の父の部屋へ行ったが、私がなすべきことは何もなかった。

 安保闘争で糾弾された岸内閣は、既に池田内閣に交替し、総選挙を目前にしていた。社会党は、安保闘争の高揚をそのまま選挙に結びつけ、大きく前進しようとしていたが、池田首相は、「寛容と忍耐」でこの動きをかわそうとしていた。与党と野党が政治決戦に向かって着々と歩を進めていたのである。そういう中で、右翼テロで野党第一党の党首が刺殺されたのだから、これは大変な事態だ。戦前の暗い体制に戻りそうだ。しかし、野党の力もそれだけ強まり、保守反動の側が危機感にかられてあせってきたとも言える。二つの勢力ががっぷり組んだ引くに引けない大政治決戦となった総選挙に勝ち抜くため、あらゆる戦力を総動員しなければならない。

 このような背景で考えると、今ではまったく恥ずかしい話だが、私は、「この事件は社会党にとって良かったのではないか」と思った。浅沼氏は右派から出た人であり、社会党のトップに据えるにふさわしくないと、それまで思っていたし、その人物がテロで葬られるという劇的な死に方をして、これで社会党の人気が強まれば、政治的には良い結果となると思ったのだ。当時私は十九歳で 「若気の至り」と言ってしまえばそれまでだが、浅沼氏に何故大衆的人気があるのかを十分理解せず、その人気を政治的にのみとらえ、人の命よりも政治的効果を重視するような考え方を一度でもしたことがあるということについては、全く自分自身がいやになる。今でも痛痕となって心に残っている。

 書記長だった父は委員長代行となって猛烈に多忙になる。清水谷議員宿舎では、父と私の二人だけの生活だが、父が宿舎に泊まるのは一週間に三日ぐらいだったと思う。食事は原則として外食で、二人とも深夜に帰ることも多く、朝ちょっと顔を合わせるぐらいだった。あい変わらず、父は私のことには干渉しない。ただ原稿を清書させられることが多かった。それが父の私に対する政治教育だったのかもしれない。

 この頃、社会党内でも構造改革論議が焦点になっていた。父が目指したのは「政権が取れる社会党」を築くことであった。当時「三分の一政党」といわれた壁を破り、政権を取るための政治路線を真剣に探った結果出て来たものである。それまで、社会主義の理想像はあっても、具体的な変革の手段となると、暴力革命路線か、議会内改良主義路線かの二者択一しかなかった。革新勢力のカで現実を少しずつ改革していきながら、最終的には資本主義の仕組みそのものを変えてしまうことをねらった構造改革論は、現実的であり、新鮮な魅力を持っていた。私自身もしだいに構造改革論に傾斜して行った。社会党は、構革論を基調とした運動方針を採択したが、これについて「浅沼事件直後で、論議が不十分だった」として、論争が後にむし返されることになる。そういう余地を残した決め方だったことは、構革論にとっても、社会党にとっても不幸なことだった。

 父は、先頭に立って構造改革論を提唱し、成田知己氏らと共に「構革論こそ科学的社会主義の現代的展開だ」と主張したが、反構革派は「修正主義、日和見主義だ」と攻撃した。この論争は本来、党主流を占めていた左派鈴木(茂三郎)派内部の「正統派社会主義の本家争い」であった。父は、この論争で鈴木派に別れを告げ江田派結成に踏み切ったのである。父はこの他、議員政党から組織政党への体質強化のため、国会議員代議員権制度の廃止、社青同の育成など、組織面での改革も断行した。この改革の目的である党員数の飛躍的増加と組織強化が果たせなかったから、形式だけが残ってしまい、五十二年の党改革論議で国会議員の代議員権、社青同の二問題が焦点となったのだろう。いずれにせよ、社会党内では、父の目指したことが素直に受け入れられず、結局、党勢を確実に下降させるようにと事態が進行していった。

 父は後に江田ビジョンを出すことになる。アメリカの高い生活水準、イギリスの議会制民主主義、ソ連の徹底した社会保障、日本の平和憲法の四つを兼ね備えた社会を目指すというわけだ。これを全くけしからん発想だと非難する人たちが多かった。しかし当時から私は、政治的なスロ−ガンとしては当然の内容だと思っていた。社会主義が、人類が目指す最高の社会だとすると、当然生活水準は高く、福祉は徹底し、平和な民主主義社会でなければならない。それぞれに国の名を冠したのは、具体的なイメージがわくようにしただけで、アメリカに黒人問題があるなどということは、父のビジョンの批判としては的はずれである。ただイギリスの議会制民主主義というのはやや問題で、もっと労働者の発言力が強くなる徹底した民主主義を目指すべきだ――と友人たちに対して語っていたものだ。

 浅沼事件の後、三十六年二月には中央公論社長邸を右翼少年が襲い、お手伝いさんを刺殺するという嶋中事件が起きた。自民、民社両党は政治的暴力行為防止法案を衆院で強行採決した。三十六年春の学生運動のテーマは「政暴法粉砕」であり、駒場ではストライキが行われた。安保のストでは行われなかった委員長の退学処分が、このときは復活した。


第三章 学生運動と退学処分

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