第二章 遊びと友達と勉強と

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  遊びの誘いは断らぬ

 高校時代の事だから、受験について書かなければならないだろう。私は、中学、高校時代に、友人などから、遊びというか、勉強以外の事を誘われれば、他に予定のない限り、断わったことがない。勉強を理由には、絶対に断らないことにしていた。生徒会総務を引き受けたのもその原則に基づいたものだ。他薦があったので候補者となり「やりたいわけではないが、選ばれたら熱心にやります」と言ったら、当選してしまった。断るなど思いも寄らないことだ。水泳、書道などもやっていたから、客観的に見て、勉強の時間が少なかったのは事実だ。

 もう一つ、他人の見ている所では、絶対に勉強しないことにしていた。時々、勉強しているところを他人に見られたが、何か犯罪行為を目撃されたような、恥ずかしい気がした。このため教師や友人の中で「江田は全く勉強していなかった」と信じている人がいるようだが、それはあまりにも過少(過大?)評価である。

 高校一年の頃から、午後十一時過ぎに民放ラジオで放送される高校講座を聞いていた。その他にも時間を都合して、英語と数学だけは自分なりに熱心にやっていたと思っている。私にしては珍しく、教科書以外の参考書や問題集などをやっていたのもこの二教科だ。友人と難しい問題の出し合いっこなどをしたこともある。

 二年までは比較的規則正しく勉強していたが、三年では生徒会のため崩れ始めた。英語ではサマセット・モームの「お菓子とビール」の原書を買って読もうとしたが、途中で放り出した。また教育実習で来ていた女子大生に、難しい文章を作って「教えて下さい」と「嫌がらせ」したこともある。結局、この女子大生もわからず「次の時間までに調べて来ます」という返事で、してやったりと喜んだりした。こんなイタズラだけはやっていたが、受験勉強の方はさっぱり手につかない。学校では週に三、四日、三年生に浪人も加えて受験用の「補講」をやっていたが、これも二、三回のぞきに行った程度で“皆欠席”に近い。

 こんな高校だから、一般の生徒には、かなり細かい受験指導がある。勉強の指針から、志望校の選択まで、教師が個々の生徒にアドバイスしてくれたらしい。だが私だけは例外だった。「浪人したくないんだったら勉強しろよ」といわれた記憶があるだけだ。受験生としてはあまりに非常識な生活をしているので、あきらめられていたのだろう。

 大学についての知識だってほとんどなかった。国立大でいえば、東大が一番難しく、その次は京大、岡山大も医学部なんかはかなり難しいという程度の知識だった。法学部ならあの大学、経済ならこの大学などと、詳しく調べる高校生も多いらしいが、そんなことには全く関心がなかった。自分の力で入れるところならどこでもいいと思っていた。二年のときに文科系志望か理科系志望かを分ける。このときはかなり迷った。父にも相談したが、「どっちでも、好きなようにしろ」という。結局、理科系のコースを選んだ。こんなことを思い出してみると、当時の自分はどの大学を選び、どんな学問をやって、将来の職業は何にするというようなことを真剣に考えてはいなかったのだろう。

 九月に旺文社の全国模擬試験があった。この頃、学校の試験は悪かったのに、模擬試験ではかなりの好成績だった。詳しいことは忘れたが、一応成績優秀者として名前も載ったし、東大文Tに合格する可能性が「五〇−七五%」と判定されていた。自分自身、信じられないような気持だった。もっとも私の得意な英数国の三教科だけなので、こんな成績はアテにならないと思っていた。

 生徒会も忙しかったが、受験はしだいに迫ってくる。英数国三教科がだいたい水準に達しているとすれば、私立大はパスするだろう。しかし授業料の高い私立大だけ受験するわけにもいかない。国立も受けなければならない。どうせやるなら、一番難しい東大の文Tを目指そうという気になっていた。その頃は、何故か文科系志望に変わっていた。二年から理科系の勉強をしながら、文科系に変えることも、進学指導の教師にとっては常識外だったかも知れない。そうなると社会、理科で四科目を選択しなければならない。世界史、人文地理と物理、化学だが、これがちっとも勉強していない。難しい参考書なんか読んでいる時間がない。「とにかく、教科書だけきちんと理解しよう」と、毎日毎日、この四科目の教科書を読んだ。本格的に受験を目指した勉強に切り替えたのは一月からだが、一月は明けても暮れても教科書を読むだけであった。「こんなことやってたって、東大なんか入れるはずはない。英数国がおろそかになるから、私立もダメだ。共倒れだ」なんて思ったりした。

 結局、早稲田政経、東大文T、国立大二期は東京外大か農工大を受けることにして一月末上京した。宿舎は当時、参議院清水谷議員宿舎にいた父のもとである。二月末に早稲田の入試、三月三日東大一次、同八−十日東大二次、同二十二、二十三日二期校というスケジュールだった。私にとっては、この間、受験前の最終調整どころではない。受験勉強そのものである。受験日以外はびっしりつまったスケジュールを作り、勉強した。

 早稲田の入試は一室五十人ぐらいの会場だった。倍率から計算すると、そのうち二人ぐらいしか通らないことになる。「どうせダメだ」と思ったが、問題に向かってみるとかなりできた。終了後「まず大丈夫」 との自信があった。

 東大の一次はともかく、二次はまったく自信がなかった。だが発表前に一橋大を受けた友人と会ったら「オマエどんな答を書いたか、思い出してみろ」という。とにかく問題ごとに、私の解答を書いてみた。この友人が細かく検討してくれて 「オマエ受かるよ」と言ってくれた。信じられなかった。発表の日、駒場の掲示板を見にいったが、サッと見たところ私の番号はなかった。「それみろ。やっぱり自分の勘の方が正しいや」と思ったが、もう一度よく見たらなんとあるではないか。その前、早稲田政経に合格していたが、やはりうれしかった。

 幸運にも恵まれていた。ローマ時代、何かの業績を残した皇帝の名を書く問題で、私は何も分からずに最も有名なネロと書いたら、それが正解だったりした。これは早稲田の方の問題だったと思うが、十進法の数字を二進法や三進法に移し変える問題があった。何か公式があるはずだが忘れてしまっていた。二進法の原理に立ちもどって、中学生でもできるような初歩的計算でこの問題を解いた。

 受験に関していえば、私は最少の犠牲で、最大の効果を上げたのかもしれない。今は私の時代より、受験競争は、はるかに厳しくなっているかもしれないが、小、中学校のころから受験一本でやっていて、そんなに効果があるものかどうか疑問に思う。他の面もあわせて、バランスの取れた能力を持たなければ、結局受験でも駄目ではないかと思う。以後、私のところに聞きにきた後輩などには「難しいことをやる必要はない。教科書だけ一生懸命やれば、なんとかなる」と答えることにしている。

 東大の合格発表の夜は、父も一緒にビールを飲んで祝ってくれた。四、五日東京にいたが、父がお祝いというわけだろうか、五千円くれた。すごい大金だと思った。長野から北陸へ寄り道、戸倉温泉と金沢で一泊ずつして岡山へ帰った。

 高校時代、政治的な問題で行動したことは特にない。しかし、砂川、内灘など基地闘争や警職法闘争など、関心は持っていた。ビキニの死の灰事件ではショックを感じたこともある。母の活動の関係か、松川事件の映画を見たこともある。勤評など教育問題も、私の学校では特に問題にならなかった。こういう政治的関心を行動に結びつけようと動きだした生徒もいたが、私自身は生徒会その他の活動に追われていたこともあり、積極的にリーダーシップをとる余裕もなく、その気持にもならなかった。

 高校二年の時だったと思うが、島木健作の「生活の探究」を読み感激した。引き続いて「蟹工船」など一連のプロレタリア文学を読んだが、あまり面白くなかった。ちょうどこの時の国語の教師が、プロレタリア文学をけなし、「パール・バックの社会認識に比べ、日本のプロ文の社会認識はきわめて浅薄である」などと言うのである。

 周囲に影響されたためか、私は直感的に、この教師の言い方はけしからんと思った。作文に「日本のプロレタリア文学は、確かに認識が形式的で、浅いかもしれない。しかしそれは極めて抑圧が強い戦前の社会の制約があったためだ。社会を深く洞察する口を文学者が持つことすら、許されなかったのだ。こういう制約を無視して、一方的にプロレタリア文学をけなすのはおかしい。歴史的な視点を持ち、客観的に評価すべきだ」という趣旨の反論を書いたことがある。プロレタリア文学に甘すぎたというほかない。高校時代は私の「社会主義」もそこまでで、「共産党宣言」を読んだという友人の話を聞いて「すごいな」とびっくりする程度のことだった。

 中学、高校を通じて、家族のことはほとんど印象に残っていない。中学の時から自分の部屋を与えられており、家にいる時は、部屋に閉じこもっていた。拓也とは四歳違いで、共通の遊びも、話題もなかった。私もこの時期は父と同様、家族を放っておいて、水泳だ、書道だ、生徒会だなどと飛び回っていたのだろう。

 下級武士の「官舎」であった家は、しだいに周囲から崩れ出し、その度に狭くなって、私が高校生ぐらいのときには、私の家族しか住めないようになっていた。高校三年の時には、同じ岡山市内だが、普通の家に引っ越した。ボロ家に十二年間住んだわけだ。


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