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  立たされたことも

中学校1年の時、先生・級友と(左から4人目)

 岡山市立旭中学校に入学したのは昭和二十九年四月だ。弘西小、旭中、それに県立岡山朝日高校と、私の出身校はよく名門といわれるが、学区内に居住しているから当然入学しただけだ。最近は私も冗談に「名門旭中」などというが、私自身には名門意識などまるでない。

 小学校五、六年の時、自分で机に向かって勉強する習慣がついたせいか、勉強が難しいと感じたことはなかった。数学なんかは、小学校の算数から名前が変わったのに、なんでこんなに易しいんだろうと思っていた。相変わらず自分で教科書を読み、先へ先へと進む。学校の授業をまじめに聞かない癖がついてしまった。一度先生にこっぴどく叱られた。誤差のことをやっていた時だが、突然当てられた。全く別のことを考えていたので、何が何だか解らない。「お前は授業を聞いてない。立っとれ」ということになってしまった。

 英語は、大学を出たての熱心な女の先生がいて、新しく英語部を作った。私も入ったが、短い文章を読んだりしているだけで、たいしたことはなかった。何を思ったのか、英語を習い始めたばかりの一年の時、丸善で原書を買い、読もうとしたことがある。「磁石」という題の科学絵本で「地球は大きな磁石です」なんてことが書いてあった。それぐらいならいいが、まだ習っていない現在完了や受身が出て来て往生した。参考書などをしつこく調べて、ようやくこういう形もあるんだということは分かったが、完全には理解できなかった。

 二年の英語の先生はおもしろかった。試験で八十点以上取ったら教科書に赤の表紙をかぶせる。九十点以上は銀、百点なら金の表紙だった。これらの表紙をつけている生徒は、授業中あてないという。私は幸い最初の試験で九十点以上を取り、以来一年間、授業中安心してさぼっていられた。普段勉強していないのだから、試験前の一夜漬けが頼りだ。それでも八十点以下には下がらず、三学期には金の表紙がもらえた。一夜漬けでも何とかするという自慢にならない能力がついたのはこのころからだろう。

 国語は比較的成績が悪かった。私は日本語をしゃべり、書くのに何の不自由もないのだから、ややこしい文法なんか、なぜ勉強する必要があるのかわからなかった。これでは良い成績を取れるはずもない。

 中学校に入ると、先生の家へ遊びに行ったりする。一年の担任の先生とは、それがきっかけで、今でも親しくしてもらっている。今から考えれは、生意気盛りの中学生とつき合ってくれたのだから、先生とは有難いものだ。

 職業家庭科だったと思うが、先生のタネ本を見つけたことがある。図書館で百科辞典をめくっていると、ある項目で、先生が黒板に書き、私たちがノートに取った内容がそっくりそのまま出ているではないか。その後は、授業の前に必ずその百科辞典に目を通し、授業の内容を予知できた。予習をしようという殊勝な心掛けではない。先生の権威の陰に隠れた部分を見出し、時に間違うのを発見して大喜びだったのだ。

 このころ急に要領が良くなったのだろうか。夏休み研究発表のコンクールか何かで、旭中学からも何か一つ出さなければならなくなり、夏休み後に 「オマエやってくれ」と先生に頼まれたこともある。大急ぎで手許にある本を読んで、星について何か書いたら、表彰されたのにはびっくりした。

 クラブ活動では写真部に入り、熱心にやった。安物のカメラで運動会、林間学校、修学旅行などの行事をはじめ、いろいろ撮影した。時々同級生などから「○○さんを撮ってくれ」という依頼もあった。こいつはあの子が好きなんだと思いながら、廊下で待っていてパチリとやっていた。

 撮影よりも暗室での現像、焼付けが楽しみだった。カーテンで作った暗室だから、昼間は光が入るという口実もあり、ずいぷん夜遅くまでやっていた。いつも数人で騒ぎながらやる。かなり露骨なワイ談をやっていることもあった。一度、その最中に先生が来て「困ったことになった」と思ったことがある。その先生は、カーテン越しに聞こえていたはずだが、何も言わずに引き上げてくれた。科学好きの傾向は続き、現像液の調合を変えてみるのも楽しみの一つだった。

 父は三十一年一月、イギリス国会の招待で渡英し、帰路欧州、アジア・アフリカ諸国を回って来た。全日程二十日余りだが、その間、私と拓也あての絵葉書がひんぴんと届いた。「ロンドンに着いた。元気だ」ぐらいの簡単な内容だが、飛行場に着くたびに投函していたようだ。 みやげはドイツのアグファというカメラだった。あまり上等なものではないが、それまで使っていたコニレットよりはましで、その後よく使った。 


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